和田彩花「sachi」が刺さった(自分の趣味に思いっきり寄せた感想文)
和田彩花さんの新曲「sachi」を聴いた感想です!
「sachi」
作詞:和田彩花, valknee
作曲:valknee, Tomggg
編曲: Tomggg
楽曲の配信リンクはここ👇2022年5月22日配信開始!MVはまだありません。
この記事を書いているのは配信翌日の5月23日で、私は配信前後に行われたこのTwitterスペース&インスタグラムライブ (with valkneeさん) の内容を一通り聞いています。
ですが、下記の思ったこと、解釈を書いていくにあたって、そのあたりで出た話を引用したり、意図的に無視したりしています。
初見で彷彿とさせたもの:Avec Avec、ホットラテ、小沢健二
まずイントロを聴いた瞬間に、私はこの曲を思い出しました。Avec Avec 「Day By Day feat. 中江友梨 (東京女子流)」。
2013年にMaltine Records (tofubeatsやbanvoxなどを輩出したインターネットレーベル)とavexのアイドル「東京女子流」(スマイレージとはアイドル戦国時代を共に過ごしたグループ)とのコラボレーション「Maltine Girls Wave」で発表されたこの曲。上記の説明はちょっと乱暴ですが、要は私はこの曲が凄く好きです。
特にイントロのシンセの浮遊感と隙間の多さで生まれる切なさ。そこに入ってくる意外に言葉数の多いボーカルでアンニュイさが増幅される展開。サビでグッと込み上げていく、ギアが入る感じ。好きですね。
Avec Avec 「Day By Day feat. 中江友梨 (東京女子流)」
どうでしょう。なんとなく共通するものがありますよね。イントロの音色から、小節の前半に言葉数多めのAメロ、「幸せ」をテーマにした歌詞、サビでグッと上がる感じは「きみ描く幸せ違いそう」部分でちょっとだけって感じですが。何が言いたいかというと、「sachi」も初見で私の好みゾーンに刺さってきた、ということです。
「Day By Day」の歌詞は過ぎていく日々の小さな幸せを一日の流れの中で感じていく、というほのぼのしたもので、一見「sachi」もそんな曲なのかな?と思ったのも束の間、歌詞を聴いていると何やら「時々交わった視線苦しい」「きみ描く幸せ違いそう」など聴こえてくる。
早速Apple Musicで歌詞表示をONにしてみると、そこには「きみ」との友情の距離感が以前とは変わってしまい、いろいろと予見させながら思考を巡らせる切ない話が(要約するのめっちゃ野暮だ、これは無視して下記リンクから全文読んでね)。
この歌詞を読んで真っ先に思ったことは「ホットラテだ!!!」でした。
この「ホットラテ」とは当然和田彩花さんの楽曲「ホットラテ」の「ホットラテ」です。ホットラテホットラテ。
私は「ホットラテ」大好きなので、以前にもこんなnoteを書いたりしている。
「sachi」は「ホットラテ」ではないのですが、歌詞のテーマとしては近しいものが感じられます。まあ要はホットラテの「あなたの幸せすてきよ 私のそれとはすこし違っても」の部分ですね。
ただ「ホットラテ」ではそれでも(あなたやわたしを疑った先で)「そっと前を向いて 貫く愛は今日もここに」と自分自身の気持ちや行動にある種の前向きな結論を置いていたのに対して、「sachi」では「ずっと友達で明日からもまたたまに散歩しよう/できる?」と「きみ」と「私」の間についてや、自分の気持ちの置き所についてはっきりとは結論を出していないように見えます。
私はどちらの歌詞も好きですが、今回「sachi」ではこの「迷い」の状態のまま楽曲として成立していて、すごいなっておもいました。すごいなって。作詞をしたことがないので想像ですが、きっと自分ならもうちょっとなんか結論めいたことを言わないといけないんじゃないかって不安になりそう。すごいなって。
ここまででもう「Day By Day」みのあるのサウンドに、「ホットラテ」みのある歌詞、こんなの好きに決まってるじゃんと思っているとこんなツイートが。
そうです。だってそうじゃん!
あと見てください、ツイートの時間。↑が0時3分、↓が0時4分。
「sachi」が2分54秒の楽曲なので、本当に1回聴き終わったタイミング。
このツイートをみて「いや、たしかにそれな!」となりました。
ご紹介が遅れました。ここで触れられているのは小沢健二「さよならなんて云えないよ」です。
まず出だしの音聴き比べてください。この鉄琴(合ってる?なんていうの?グロッケン?)みたいな音色で始まってる!彷彿!
そしてなによりも歌詞の内容ですね。この「さよならなんて云えないよ」は、人生の中で、友人等との関係性が最高に高まる瞬間の訪れと、その刹那に感じる確実に訪れる未来の別離の予感について歌(だと私は思っている)なのです。
「さよならなんて云えないよ」はダブルミーニングなタイトルで。人生の中で出会う人々って、もちろん一緒に楽しいことしたり、喧嘩したり、考えを深め合ったり、たくさん時を過ごすけど、本当の「さよなら」が訪れるタイミングでちゃんとそれを言えることなんてまず無いし、言えないまま死んでいくんですよねきっと。まあ「次会うまでに死んでると思うから、さよなら」なんて云えないですし、そんなこと云えないままいつか本当のお別れになってしまうわけです(というダブルミーニング)。そして、転じて、今この最高の関係、今この楽しい瞬間が儚く切なく美しい、というわけです。
「sachi」は、いわゆる「左へカーブを曲が」って「光る海が見え」た最高の瞬間は、もしかしたらもう過ぎてしまった二人なのかもしれない、けれど「さよなら」が云えないまま、また「光る海が見え」るかもしれないと思いながら、もう見えないかもと思いながら、坂道を歩きながらただ下っていっているのかもしれないですね。そういう意味では「さよならなんて云えないよ」は「sachi」の前日譚みたいなことかも。いや、でもそういう関係性になっちゃうこと、往々にしてありますよね。あんなに一緒に光る海が見えて、心が一つになったような気がして、楽しかったのに、っていう。
歌詞について思ったこと
この歌詞が「別離の予感」を書きながらも、同時にこれからも共に歩んでいく余地・希望を残しているという点が、アンジュルム「愛すべきべきHuman Life」における「温もりだけ忘れんな Noであるときも」の実践になっていることは下記のnoteが指摘する通りです。
しかし歌詞を改めてみると、本当に「No」な歌詞ですよね。「行きたいとこ別々 あの頃と同じは難しい」だって。でも拒絶の「No」にはなっていないんですよね、温もりがある。
特に「No」で好きなのは「Face with Tears of Joy の emoji Rolling on the Floor Laughing のEmoji」のところで。ここはフックというか、曲の中でも特徴的で楽しげなパート。実際の絵文字は「😂」と「🤣」で、割と話が盛り上がった・ウケた時に使われるものだと思いますが、それを「No more No more No more send me」とピシャリ。映画泥棒だって最後に1回しか言わないNo moreを3回も丁寧に繰り返して、聞き逃しようのないNoを突き付けているわけです。ちょっと希望を持たせてピシャリなので、いわゆる「お先は真っキラだ」「前途は多感だ」のポジティブダジャレ(※下記記事参照)の真逆を言っているわけです。
これだけ「別々」「違いそう」「No more」「難しい」などと言っても、それでも「温もり」があるのは、それでも愛を信じるのは、(いや、もちろん和田さんが温もり忘れない人であるということを、我々はちゃんと知ってる、というところを一旦脇に置いておいても)他の部分の歌詞、例えば冒頭の「I wish きみのさち」や「たまに散歩しよう」に見える寄り添いの姿勢と、なによりやはり曲調が寄与する部分が大きいのかなと私は思いました。この辺をうまく言語化できないのは不甲斐ないですが、曲調やアレンジが、うまく温もりを補完しているように感じました。
歌詞について気づいたのは、英語が多いこと。理由は単純で「和田彩花さんの"原作"を元に、valkneeさんがラップにした」という作業の中で、原作では日本語だったものをvalkneeさんが英語として再構築したとのこと。また英訳したことによって和田彩花さん自身意味が変わったりしたとは感じていないという回答がインスタライブでありました。
とはいえ自分としてはそのあたりもう少しもうちょっと関心があるというか、日本語→英語に翻訳して、意味もニュアンスも待ったく同じになるなんてことは、受け手視点から言えば、なかなかないと思っています。ただの個人的関心ですが、元の「原作」ではどういう文章だったのか、それが英語になったことで、楽曲にどのような影響・広がり・示唆を与えているのか、というあたりが気になっています。このあたりの話はvalkneeさんの楽曲のリリックも色々と見聞きしたうえでも、また考えたいなと思います。
その他、歌詞に関して気に入っているところは、感覚(五感)についての言葉です。一見すると「視覚」に関する言葉が多い(目、ピント、視線など)ですが、「言ってくれた」(聴覚)や「色味」(視覚+味覚)もあり、またこの曲において「距離」は「触覚」的感覚を想起させる言葉だと思ったり…。まあこんな「無理矢理こじつけ五感言葉ゲーム」をして何が言いたかったかというと、この感覚を全方位から刺激される感じが、この曲を聴きながら、曲中の「わたし」に自分自身を投影して、自分に引き寄せて聴くことを後押ししてくれた、と言うことが言いたかったです。
楽曲に対して、「へえ、この人はこういう考えなんだ!(⇒すごいね、かわいいね、おもしろいね、かっこいいね)」という時と、「わかる…この曲みたいなことあるよね…(⇒私ならこうする、こうはできないけどわかる)」という時がある(私にはあります)のですが、この曲は確実に後者です。そしてそれを補強してくれる仕掛けがこの曲にあるんだよっていうことが言いたかった。
いま上記を書いてて思ったのは、私はこの曲において、「私」に瞬時に視点を同期させてこの曲をきいてしまったけれど、「きみ」側としての瞬間も人生には沢山あったんだろうな、ということ。それはそれで、難しくて、幸せで、切なくて、温かいなことなのかもしれないですね。
また、細部を色々と見てから、改めて楽曲全体を見渡すと、この曲調でこの内容って、やっぱり新しいと思いました。
ふつう(ふつうとは)は「このままずっと一緒に歩いていこうね、よろしくね」という曲調にはそういう歌詞が付くし、「これからは別々の道をあるいていこうね、さようなら」な歌詞が付くわけでして。この曲は「一緒に歩いていきたい感覚(=曲調で爽やかに)と、別離の予感を感じている思考(=歌詞で厳しく)」という風に、単純に言い切れない気持ち・考えがある種自分の中に両立してしまっていることを、こういう風にして表現したのかなあ、などと思いました。対立軸の間の世界。
聴き直して彷彿とさせたもの:環境と心理
和田彩花さんがインスタライブで、「お昼に散歩しながら聴ける曲にしたかった」「出来る方はイヤホンでこの曲を聴きながら外を歩いてみて」という趣旨(記憶頼み)のことをおっしゃっていたので、早速今日発売の小沢健二の載っている雑誌(AERA)を買いがてら、「sachi」をイヤホンで聞きながら外をほっつき歩きました。
はじめは「おお!これは確かに足取りが軽くなる気がする!」(チョロい)と聞いていたのですが、曲が同配信に収録されている「sachi (instrumental)」になってから、あれ?なんだこの既視感、Avec Avec / Sugar's Campaignじゃなくてもっとこう、と思って分かりました。
Cornelius、特に「Sensuous」期あたりの感じでした。浮遊感のあるシンセに、ビートが乗ってきて、絶え間なく全方位からちょっかいのように差し込まれるサンプリング・音ネタ。この感じ、めっちゃコーネリアス。
特に「Breezin'」「Fit Song」「Beep it」「Music」あたりの感じがちょっとだけあるなあ、と。いや、全然違うんすけどね、でも、こう、要素が。
ネリアスついでに脱線を続けますが、和田彩花さんが2020年にやっていたライブのプロジェクションマッピングを使った演出はコーネリアスを非常に彷彿とさせましたね。特に「空を遮る首都高速」の演出はgroovisionのCornelius「夢の中で」MVを想ったし、何度か「いつか / どこか」のMVに出てくるような模様が沢山投影されるシーンもありました。ライブレポの記事でも書いてありました。
なんとか話を元に戻して、ここで何が言いたいかというと、やっぱりサウンドが私の好みだ、という話です。
さらにインスト版を聴いてから、もう一度歌詞ありの「sachi」を聴きながら街を歩いていると「あっ、この感覚、なんか最近身に覚えがある」となりました。何度か聴きながら、考えながら、歩いていて、思い当たりました。
METAFIVE「環境と心理」でした。
この曲はMETAFIVEのメンバーである、上記のコーネリアスこと小山田圭吾が、初めて単独名義で作詞作曲してMETAFIVEに書いた曲で、約4年間活動のなかったMETAFIVEが突然リブートし、流行り病で変質した世の中に、2020年7月24日、本来の東京オリンピック開会式開催予定日に発表されました(しかし、なんというめぐりあわせか…)
まあ、そんなことは置いておいても、まずこの曲がコーネリアス主導で制作されたことで、私好みのサウンド+sachiをちょっと彷彿とさせる感じになっているということもりますし、なにしろ歌詞も「変化する景色や環境と心理」と歌っています。(余談ですが、小山田さんがここまでガッツリ意味のある言葉を使ってしっかりと作詞をすることはなかなか珍しいんですよ。言葉遊び系の作詞が多いので。だからこの曲はマジなんだなって思ってます。)
まあ「朝や昼間」が似合う「sachi」に対して、この曲は確実に「夕暮れ時」の散歩が似合う曲ですし、作詞した人も「平成一桁台の女性2人」と「50歳を超えた男性」と性別やらライフステージやら社会的立場やらも異なり、そりゃ違いは沢山あります。
無理矢理強いて言うならば「環境と心理」は「sachi」の遠い未来にあり得るかもしれない景色というか、続編というか。それだと「さよならなんて云えないよ」~「sachi」~「環境と心理」で3部作が完成してしまいますね。
「幸せ違いそう」と気付いて、「別々の道」を歩くことになった後、かつて友達として散歩していた道を、自分なりの今の幸せを離さないように持っておきながら、夕暮れ時に通り雨に打たれながら歩いている、というイメージでしょうか。この場合の「夕暮れ時」というのは、単に1日のあいだの時間だけでなく、人生という長い時の中の「朝・昼間」(=20代)と、「夕暮れ時」(=50代)みたいなこともあるかと思います。
まあ、というか、要は私の好きなテーマなんだろうな…。そしてそんなテーマのなかでこれまで歌われていなかったところ(さよ云えと環境心理の間)を、好きなサウンドで歌っているので、めちゃくちゃ刺さったのかもしれません。
なんで突然に我田引水でMETAFIVEの話をしたかというと、単に彷彿とさせてキャッキャしてるのもありますが、「環境と心理」を知らなかった方が、この曲を聴いたら、「sachi」のテーマを保ったまま、視点を(時間・空間的に)少し引いて、「sachi」を別の角度から捉える機会になるかなと思ったからです。「sachi」で歌われている、その時の思考を巡らせて、難しくて、結論が出なくて、切なくて、苦しくてっていうその状況が、未来には変わって悩まなくなるところもあるし、変わらず悩んでるところはきっと悩んでるんだろうな、って予感させてくれる、という。まあ平たく言えば、どっちの曲も最高でしょ?ってことなんですが。
おわりに
ここまでさんざん書き散らかしていてあれなのですが、私は和田さんとのコラボでほぼ初めてvalkneeさんの作品に触れたものです。なので、実際この曲の半分はまだ理解できていないと言ってもいいかもしれないです。これを機にvalkneeさんの作品にも沢山触れていきたいと思っています。
色々と無理矢理こじつけながら書いたことで、いろんな異論もあると思いますし、認識の甘さが露呈している部分もあると思いますが、とりあえず、このことが曲がすごい好きな人がいるんだな、ってことは分かってもらえたと思います。今はそれでいいです。
最後にこの曲について和田彩花さんが出したコメントを貼って締めたいと思います。