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2022年1月の終わり

今月も生きました。お疲れ様でした。

思えば今月の初め、元旦は前記事の執筆に追われなんの年末年始感も感じず過ごしていた。

友人達との連日の会食(汚飲み会)により有り難く充実で潰された年末年始も気付けばあっという間にその顔を潜め、気付いたら日常の中に戻っていた。

僕はというとやはり自分ゴト、それは新しいことも続けていることも全て含め「自分ゴトを自分のやりたいようにコツコツやりましょう」の何も変わらない精神で2022年のスタートを切った。そして靭帯も切った。

脚が一本(正確にいうと左足首の関節靭帯損傷なので膝は動く)使えなくなるというのは、まぁ一時的なものだと脳では分かっていても結構落ち込んだ。

時間的に丁度3日くらいしっかり落ち込んだんだけどまぁ「落ち込んでばかりもいられない、残念なものは残念、現実そのまま!この状態でも出来ることやっていきましょう!」みたいな気持ちの切り替えをして脚を使うこと以外の現実に戻ってみた。

これは「落ち込んだ」からこそ「落ち込みからの気持ちの復帰」という手順が踏めたのであって、やはり自分の素直な気持ちに嘘だけはついてはいけないなと改めて思えた(まぁ普段からかなり本心に忠実に生きるようにしてるんだけど)(あと今回はやはり周りのサポートも大きい、感謝なんだよ、本当に)

この「自分の気持ち、感覚をしっかり味わう」ことに少しでも嘘をつき始めると最初は小さなものだったかもしれないけど、次第に大きくなっていって取り返しのつかないとこまであっという間にいってしまう。最後はクラッシュだ。そういう人間を僕の周りだけでも結構な数、見聞きしてきた。現に危ない人間も結構いる。

ということは世界中相当な数の人間がそれをやってしまっているんだろうと容易に想像はつく。


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限られた時間の中での表現物


本当は書きたい、書き始めているテーマの記事がいくつかある。

吟味して、時間をかけて、読み直して世に出そうと思ってる。今までもそうだった。

やっぱり自分の表現物だし、どんな記事1つとってもそれが自分だと判断されていいものを出そうと思っている。

ただそれだと時間はかかる。どうしたって時間はかかる。

限られた時間内(具体的に1日1本や、1週間で3〜4本など)で作品物を世にぶつけるみたいなことは、おそらくバンド活動を始めた10代中盤くらいからやってこなかった。いつだって時間があったし、いつだって自分の表現に時間的制限はなかったと思う。(正確にいえばあるけどほとんどはなかった)

時間的制限がないからこそ生まれる表現物もあるし、時間的制限があるからこそ生まれる表現物もあるんだろうなと考えている。

そしてこの記事こそまさに「時間的制限を設けてみた」表現物の試験的なものである。

この記事はこれを投稿している2022年1月31日20時頃に投稿する1時間ちょっと前くらいからあえて取り掛かってみた。

質と量の話でいうと、やはり俺には色んな自分ゴトでまだまだ量が足りないなと最近思う。

この量も個人の感覚に依る物が大きいだろうし、はっきりと「質と量」で分けれるものでもないのだろうけど、にしても俺は量が足りない。この文筆にしても言語勉強にしても金稼ぎにしても運動にしても自分ゴト諸々にしても。精神的豊かさの最低限の獲得は出来たし、土台も少しずつ作れている。

そうなってきて生まれた快適な場所は、確かに快適なのだが少しずつ自分を衰退させる。やっぱり快適な場所で少し休めたなら、また抜け出そう。ありきたりな言葉だけどコンフォートゾーンからの脱出は時と場合によっては結構大事。

快適な場所から抜け出すのって嫌だけど、それをやるしかないって何度も痛感させられる方がもっと嫌だったんだから。

左足首は使えなくても思考は動く。頑張れ俺。


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最近の雑感を1つ投下して終わり

なので俺には書きたい記事も、書いている記事もあるのだが、今これを書いて今これを投稿する。

そんな時間的制限を設ける練習を今からしてないと、きっと来るべき時に適する行動が取れない気がしている。

そうでないと私は一生、青木真也や白饅頭と腹割って話す場に足を運べない。俺はマジでそれをやろうと思っているから。

かなり雑な流れで恐縮だが今月感じた雑感がメモに残っていたのでそれを投下して終わろうと思う。

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自分の今の状況、俗に言う「成功」や「地位」や「富や名声」は自分の実力だと信じてやまない人が一定数いる。

運も実力のうち、と言うが生まれた環境、持って生まれた才能、自分の意思決定が反映されてない恵まれた教育、これらに目を向けず自分の意思決定の部分にだけ目を向け『私は努力をしてきた。だから今の私がある。』と信じてやまない人が一定数いる。

謙虚であれ、とは決して『無闇に自分を卑下して謙って魅せろ』と言う意味だけではない。

自分が決して想像し得ない環境下にいる人間のことを可能な限り慮りながら、日々の思考をして驕るなということである。

妬み嫉み嫉妬の類も悪いことだけじゃない。
時に大きなパワーを生むこともある。

しかし飛びつきやすい、やり易い批判や中傷をしても一時的に価値のない高揚感は得られるがそれは自傷行為に等しい。自分の弱さを守るための攻撃は全て自分に返ってくる。

今この文章を第一言語として安易に読めている貴方はそもそも元から相当恵まれている。恵まれているにも関わらず

生まれた国から一切出ず、その国の中だけで思考価値観を形成し、その国特有の教育を受け、その国特有の文化風習に染まり、その国だけでの人間関係を構築し、その国だけで仕事をし、その国だけで自己実現を図ろうとするなら、煮詰まり訳の分からない偏った思考に陥ることも大いに理解できる。

挑戦をして失敗をしたから何だというのだろう。

その失敗によって自分の人生に本質的にどんな影響を及ぼすのだろう。

その及んだ影響を自分はどう捉えるのだろう。

真面目さと真剣さは違う。いつまでも教科書大好き白黒だけで生きる真面目なガキではいられない。

真剣に生きるからこそグレーゾーンが面白くなる。

まだまだ希望はある。

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今月もとても良かった。心からそう言える。ありがとうございました、来月もよろしく。


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