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研究ノート:天野氏

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母方の先祖・天野氏に関する研究ノートまとめ。 ガチめなのからユルめなのまで。 現在進行形で調査研究中なので、改稿されたりする可能性もあります。
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2020年7月の記事一覧

天野氏の出自【研究ノート:天野氏】

天野氏の出自には3つの説がある。 ①藤原南家為憲流 『尊卑分脈』南家祖左大臣武智麿四男乙麿孫の系譜、入江維清(為憲の曾孫)の子「清定・・・景澄・・・景光・・・遠景」とある(点線だから養子ということだろうか)。 ②藤原北家魚名流(山蔭流) 『尊卑分脈』贈太政大臣藤原朝臣房前五男左大臣魚名孫の系譜、山蔭の六代孫相継の曾孫「兼盛―遠兼―遠基―遠景―遠連」とあるが、この遠景を天野遠景とする説。 ③後三条天皇の第三皇子輔仁親王後裔 尊経閣文庫所蔵『天野系図』に「輔仁親王―隆輔中将

三河天野氏の代表に天野康景を挙げると三河天野氏の本質を見誤る【研究ノート:天野氏】

前回の記事で天野氏の出世頭として天野三郎兵衛康景を紹介した。 実は三河の天野氏の中で康景の家系は「異端」なのだと述べたが、まずその系譜を見てみよう。 天野康景の系譜康景は三河国坂崎(現愛知県額田郡幸田町坂崎)の生まれとされるが、三河へやって来たのは祖父の遠房で、家康の祖父である松平清康に仕えたという。 寛政年間(1789-1801)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によると、次のような系譜となる。 天野左近右衛門定景―甚右衛門遠直

天野氏は「何譜代」か?【研究ノート:天野氏】

徳川家の譜代家臣は多くいるが、それらを「いつから徳川(松平)家に奉仕したか」で区分する考えが古くからあり、「◯◯譜代」という表現をする。 『柳営秘鑑』では安祥(安城)城に在城した信光・親忠・長忠(従来長親とされてきたが、最近では長忠とするのが一般的という)・信忠の4代の間に奉仕した家臣を「安祥譜代」、清康が山中・岡崎を攻略した以降の家臣を「山中譜代」、駿河を領してから奉仕した家臣を「駿河譜代」としている。 さらに『武徳大成記』は、親氏・泰親・信光までに仕えた家臣を「岩津譜

豊臣秀吉って元は犬居天野氏の被官だったりしない?【研究ノート:天野氏】

※今回はゆるめの研究ノート、というか妄想です。 犬居の天野氏の本拠地・犬居は現在の浜松市天竜区春野町に位置する。 合併前は周智郡春野町で、1997年3月に「春野町史 通史編」上巻が刊行されているが、その中世史の大半が天野氏に関する事柄で、天野氏研究には欠かすことの出来ない資料となっている。もちろん手許にある。 さて、中世の武家社会には寄親・寄子という制度があった。主従関係を親子関係になぞらえたものである。 さあ戦だとなると、寄親は寄子を引き連れて出陣する。戦が終わると、

土用【研究ノート:天野氏】

今日は土用の丑の日である。 この日に鰻を食べるようになったのは平賀源内の発案によるもの、という俗説があるが定かではない。江戸時代に始まる習俗であるのは、確かなようだ。 土用は夏に限ったものではない。春にも秋にも冬にもある。 土用とは四立すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前18日間をいい、要するに季節の変わり目をいう。土用の最終日は四立の前日であり、つまり節分である(節分も春に限ったものではない)。 陰陽五行説で春夏秋冬はそれぞれ木火金水に当てはめられたが、残った土気をその間