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20181116 予祝的に生きる


島から戻ってきた。
一週間たったけれど、島エッセンスが体から抜けていかない。
島濃度が高い。もちろん、思考もそうだ。

島は、予祝的だ。
わたしたちは、遠い未来をあらかじめ祝う。

裏を返せば、現実はつらい、ということでもある。
病気もあれば、人間関係もある、金銭的なこともあるだろう。

島の大人たちは、そのつらさを当たり前としてとらえ、18歳のわたしたちを島から送り出してくれた。
それを忘れてはなるまい。

島は昔からギリギリを生きている。
島の人だってそうだ。

島人は、今日と明日、その次の日、そのくらいしか考えられなかった歴史のほうが長い。

でも、それが平常運転と考えると、人は次は何を考えるであろうか?

だから、予め(あらかじめ)、祝うのだ。

宮古の祭祀行事は、いとも簡単に神とつながる。

たとえば、砂浜が現世とすれば、波打ち際はあわいだ。そして、死は海。

祭祀行事は、波打ち際で生きている人と先人(死人)が戯れるような、祝いの場なのだ。怖いものではない。

今、この世にいるわたしたちは明日も生きている、多分。
そして、その次の日も。
でも、次の季節は同じように生きているかどうかわからない。

私は、島から戻ると、当たり前の一日が尊いように感じる。

からだごと、明日を、未来を、生きていきたい。
それは、今日をせいいっぱい生きるということと同じだ。

不平不満を言っているひまはない。

そして、未来があるとしたら、遠い未来だ。
私が死んだ後の世界。

兄弟は、友人は、娘たちは、どう生きているだろうか。
幸せでありますように。

同じ重さで私は願う。
未来のこどもたちが幸せであるように。
それを神と予祝する。

それが島の生き方ではないだろうか。
島の文化という小さな枠では語れない。
そんな気がする。


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