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・・・ずとも・・・

 コミティア143にて頒布した新刊のweb再録です。
 過去に制作した読切の同人誌。


 紙の本の体裁に寄せたpdf版(100円)もあるので、よろしければ。




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 2021年に制作した拙作「はらまずともやどる」の続きものです。地獄界営業部第二課で正社員として所属している淫魔・烏口と、都内でデザイン学生やってる人間・朝日がなんだかんだあって一緒にいるよね〜という話です。
 本編の同人誌なので先に本編読んでください。

 文章に不慣れな人間が慌てて作った本なので何もかも破綻しています。
 急に始まってよくわかんないまま終わります。
 頑張って読んで……




・・・ずとも・・・




 日を跨ぐような遅い時間にも関わらず、夜行バスのターミナルは賑やかで忙しない。ぞろぞろと人が移動しては車輪のついた横長の箱に吸い込まれていく。
 縦にも横にも狭い四連のシートに二人の男女――――烏口と朝日は、行儀良く……と言うにはいささかラフな姿勢で座っている。「ぼく夜行バスって初めてぇ」仕組みがわからないままフットレストを足でくるくる遊ばせているこの男とはまだ二ヶ月ほどの付き合いだが、まるで前世から一緒にいたかのように気楽な関係になっている。
「新しい石鹸ほんと良い、顔のまわりがずっとステキなにおい」朝日がほくほく言う。
 先日たまたま見つけたバス用品店で購入した石鹸を二人とも気に入っていた。透明な紫から薄い青のグラデーションで、たしかパッケージにはアジサイの絵が描かれていた。
 朝日は母からの『明日駅までついたら連絡して』というメッセージを確認し、了解の意を示すスタンプを送る。目つきの悪い犬が神妙な顔で敬礼をしている珍妙なやつで、イラストレーターである兄が小さい頃から描いていたオリジナルキャラクターなのだが、SNSで偶然バズり最近は文房具だのぬいぐるみだののグッズが出る規模にまでなっているらしい。
 スマホをバックパックにしまい、器用にフットレストを展開する。夜行バス中級者の朝日には造作もないことだ。
 男性運転手の低いアナウンスと共にバスが動き出す。烏口はボタンで固定されたカーテンの隙間から、小さくなっていくターミナルをしばらく見つめていた。

 専門学校2年目。学生として最後の夏休み。
 そんなお盆時期の今、田舎の祖父母の家に向かっている。小さい頃は家が近かったのもありよく遊びに行っていたが、小学生に上がるあたりで首都郊外に引っ越して以降一、二回くらいしか会えていなかった。とはいえ関係は良好だったため今回の滞在も楽しいものになるだろう。同一世帯の両親と弟、その近くに住む兄は皆で車で向かうと言っていた。
 烏口とは一緒に行ったとて、ねえ、と話していたものの、およそ無縁であろうその土地に彼がえらく期待を寄せていたため一緒に行くことになった。基本別行動になる前提ではあるが、タイミングが合えば二人で落ち合う約束もした。
「知らない土地を彷徨うのは慣れてるけど、百パーのオタノシミで行くと思うとワクワクする~!」と音符を飛ばしながらも「泊まるあては行き当たりばったりで探して、ワンチャン仕事もする」と語る際の表情はなんとも人間味がなく、隣に座る男が”受肉した悪魔”であることをしみじみ感じさせた。それを気軽に聞ける自分も少し変わっているとは思う。

 消灯のアナウンスと共に車内が暗闇に包まれる。人間を誘惑し悪魔の子を孕ませる淫魔、恋愛感情を持たない人間、それぞれまぶたを閉じる。闇の左側から小さく「おやすみ、また明日」と声が聞こえた。人生のうち数ヶ月しか聞いていないのに妙に安心する声だ。
 連日寝不足の脳はすぐさまシャットダウンを開始する。学校の課題、居酒屋のバイト、時間があっという間に過ぎていく。気づいたら夜になっていて、気づいたら朝になっている。
 そうなると、どうしてもじっくり考えるべき問題が後回しになってしまう。

 朝日は卒業制作に悩んでいた。
 教員から「デザインの学校に通った集大成」と説明を受けたものの、本当に何をしていいかわからなかった。楽しかった課題や得意らしいジャンルもあるにはあったが、”これが自分"と他人に語れるかと言えば自信がない。そうしている間にも周りの子はちらほら必要資材や展示方法の検討を始めている。
 この夏休みが明けたら本格的に始まる。八月もほどなく終わる。焦っていた。

 だが、最近は追い詰められても励ましてくれる存在ができた。彼といるとなぜだかほっとして、なんとかどうにかしていこうという気持ちになれる。
 たえず響くバスの低いエンジン音と小刻みな振動に脳が重たくなっていく。穏やかな気持ちで、絵筆の絵の具がバケツの水に馴染むようにじんわりと意識が手放されて行った。
 その隣で、右肩に朝日の頭を乗せた烏口もまたほわほわとした暖かさを感じていた。連日”仕事”で感じる他人のそれとはまた違う、全身に伝わるような温もりだった。

   *

 バスはターミナル駅に到着した。古い都市だが最近大きな改修があったらしく、建物は小綺麗で明るい。二人は「じゃあ、また」と軽い挨拶をして改札で別れた。
 外側で人混みに消えていく烏口を見送り、朝日は祖父母宅の最寄駅に向かうためのローカル線に乗った。ターミナルとはいえ決して規模の大きくない駅を発車すると、かろうじて点在していた低いビル群がものの一〜二分で田園風景へとグラデーションしていく。
 一人で祖父母の家に行くのは初めてのはずだが、どうもこの流れていく光景には既視感がある。頭の引き出しを一つずつあたってみたものの、それらしい記憶は見つからなかった。
 まあ田園風景ってそういうものかと景色を眺め、電車はつつがなく最寄駅へ到着した。

 迎えにきてくれた父の運転は豪快だった。車通勤と聞いていたので慣れた安全運転を想像していたが、基本乗員一名の車を運転する者に他者への気配りなど一ミリもなく、祖父母宅に着くころにはジェットコースターの幻覚を見ていた。この人、黄色を青だと思っている。あとで知った話だが家族がここに来るときの運転は母と兄、二人による交代だったらしい。
 居間のテーブルには祖父母の数年ぶりの再会への喜びがぶつけられた、量も質の豪華さもあまりにも張り切りすぎな食事が並んでいた。祖父母が協力して支度をしたという。
 義務教育以来に会った二人は変わらず元気そうで、自らこしらえたごちそうを還暦過ぎとは思えぬスピードで胃に収めていく。年末年始以来に会った家族も例外なく元気そうで、元々大食いの兄と食べ盛りの男子高校生である弟が競うように箸と口を動かしている。
 それを愛しそうに見ていた祖父が、突然こちらに関心を向けた。
「朝日は何歳になったんだっけ?」
 どうしてごちそうのときにそんなことを聞くんだ。
「こ……今年二十になった」
「じゃあそろそろ"いい人"いるんじゃない?」祖母がすかさず割って入ってくる。
 ああ、ここでも聞かれるのね。
 あー、と曖昧な声を伸ばしてぼんやりといつものルーティンを検索していると、「その質問時代錯誤だよ」と白けた顔の弟が言った。
「だって、私もおとうさんとその歳の頃に出会ってとっても幸せだったから、同じように幸せになってほしいのよ! 朝日だけじゃなくて、天明も夕陽もね」
「やだなあお母さん、僕も同じだよ」
 わはは……と二人で盛り上がる祖父母を、天明、朝日、夕陽の三人で見つめた。
(そういえばこの人たちはそういうタイプだったよな)
(幸せなのはいいことだけども)
(ジェネレーションギャップだ)
 きょうだいにしかわからない周波数を目線に乗せて見えない議会が開かれたのち、天明が「朝日卒業制作どうするん」と話題を切り替えた。かつて同じ学校に通っていた兄ならではの内容であったが、またも話したくないテーマが選ばれうんざりした気持ちになった。
「俺んときはもうこのころには作り始めてたけどね」
「…全然決められてないんだよね、日々を生きるのに必死でさ。一応何かに使えそうかと思って写真とか撮ったりしてるけど」自分でもまずいと思う気持ちが一応返事の姿勢は見せるが、口からは曖昧な言葉を並べてしまう。
「ぼーっとしてると審査間に合わないぞ」「わかってるんだよ頭では……せっかくのごちそうなんだからおいしく食べさせてよ~」「ばーちゃん、おかわりある?」
 つい先ほどまで団結していたのに、一瞬で”事情を知りもしないくせに気軽に言ってくれる兄”と”自分には無関係だとごちそうをかき込む弟”になってしまった。兄は嫌なやつだが生徒としては優秀だったそうなので、まあ悪気もなく言っているのだろう。
 とはいえ元々仲のいい輪である。内容があちらこちらへ飛びながらもなんだかんだと賑やかに会話は続き、山ほどのごちそうも遠慮のかたまりを各大皿に残すのみになっていた。

 食事の皿が撤去され、交代で用意された急須に茶葉を振り入れる母が思い出したように口を開く。「そういえば明日、暁くんの命日だって」
 朝日はその名前に聞き覚えがなかった。
「アカツキクン?」オウム返しで尋ねる。
「……、十七回忌の参列はいいって烏丸さんの奥さんが言ってたから、みんなでお墓参りとご挨拶くらいは行こうと思ってるけど。明後日ね」
 違和感があった。
 こちらの質問形態の投げかけに明らかに視線を向けながら、あえて無視をして話し続ける母を不思議に思った。あまりこういうことをする人ではない。
 ほかのみんなも急にどこかよそよそしい態度だ。「何時?」とか「普通の服でいいの?」とか、故人のことだけを避けながら義務的なやりとりが続く。
 知らない人の墓参りか、あまり気が進むものじゃないな。会話からキックされ意識が宙に浮いたので、母の手で人数分の湯呑みに分配されていく緑茶を見つめた。
 朝日に分配された湯呑みは、一つだけ種類の違う真新しいものだった。

   *

「それでね、お墓がえらい森の奥にあるんですって」
 夕食もぎこちなさのまま済ませてしまった朝日は、気晴らしに散歩に出かけた道中で着信を受け、小さな公園のブランコに腰掛けた。相手は烏口で、『今日はどうだったの~』という何気ない内容から始まるようなものだった。
 薄暗い青の空に、大きなオレンジの雲がくっきりと影を作り真上に広がっている。山の輪郭のみが黒く縁取るキャンバスはあまりにも広く、ここが田舎であることを実感させる。朝日はスマホを肩と耳で挟み、空いた両手を使って自販機で買った見慣れないデザインのソーダ缶を開けた。
『ハカマイリか~やっぱそういうシーズンなんだね』電話の向こうからいつもの声と、その遠くから賑やかな音が聞こえてくる。市街にいるようだ。
 受肉をきっかけにスマートフォンが支給されたらしいが、本人は『できることが増えすぎても困る』と難色を示していた。一方で朝日は回線の契約どうしてるんだろうとか通信費はどこ負担なのかなとかそんなことのほうが気になっていた。
「なんだかやたらぼかされてて、誰のかもよくわからん墓に参りに行くんですよ」
 ソーダを煽る。喉に残る親族の違和感も炭酸と一緒に流し込めないものかと思ったが、実際食道を通り抜けたのは人工的なフルーツの香りと冷たさだけだった。
『有名人の墓なのかも、SNSに書かないでください的な』
「こんなド田舎でそんなことありますかね」
 缶の汗を親指で拭う。
「……十七回忌なんですって。私が三歳とか……四歳の頃に亡くなったってことか」
 知らない人の、知らない死。
 こんなにも他人事の事象で、なぜあれほど親族との空気が乱れたのかわからない。
『十六年経ってまだご遺族に偲ばれて、朝日んちの人も挨拶に行くんでしょ?随分愛されてたんだね。よほど素敵な人だったんだねえ』
 それはそうだ。そのぶん歳を取るわけだし、それだけ長い期間なら世代や環境だって変わっているだろう。にも関わらず親戚でもない渋川家に法要の存在が伝わってくるのだから、よほど大切に思われていたに違いない。
「私は何がなんだかわかりませんけどね」
 だったら尚更教えてくれたらいいのに。
「せっかく久しぶりに祖父母に会いにここまで来たのに、除け者にされたみたいで……」
 昼間、もう一度追求すれば解決した可能性もあった。それなのに突然の無視への驚きが勝ってしまったせいで、こんなに無意味に悲しがっている、そのことがまた悲しかった。
『まあちゃっと参加して、ちゃっと帰ってきて、それでいいんじゃない?』

 例えば愚痴を聞いてほしいだけのとき、朝日は『今から一方的に愚痴を放つので、喋り終わったらハイタッチしてください!』などと事前に宣言する。ぼくは黙って聞いてやって、終わったらお望み通りハイタッチをする。それで手打ち、以降その話はしない。
 一方でたまに、静かに呟いたり、黙ったりして、一人しかいない審議会にかけ始めるときがある。彼女は優しいので、他人に相談したいが相手を不快にさせる可能性を思うと何も言わなくなる……という場合も多々ある。まあ、ぼくはわかっちゃっているが。
 この場合思考の泥沼にはまっており、”考えたくないのに止まらないもの”なので、別の話題を投げかけてやる。

『明日はどうするの?』
「……明日は散策でもしようかなと。卒業制作の参考になるかなと思って……そう、卒業制作。せっかく来た田舎だから、アイデアを拾いに出かけたいんです」

 彼女自身その悪癖に気づいているので、気に入らないテーマでも大抵は乗ってくる。
 ぼくらはそうして穏やかな空気を保っている。
 淫魔として、この手の察する能力は自然と身についていた。相手の女の子に心を開かせて、少しでも満足度の高い仕事をするために必要だからだ。
 とは言えこの仕事は悪魔を孕ませるだけの出来高制であり、必ずしも求められるスキルではない(無理やり行為に及ぼうとした先輩は地獄に堕ちたが)。仲間内でもまわりくどいだのあまちゃんだのと罵られるものだから、果たしてこれでいいものかと悩んだりもした。
 朝日と出会い、ようやく価値を実感できた。
 何より、この思いやりで彼女を泥沼から引き上げてやれることは、大きな救いだ。

「烏口さんは?」
『僕はこのあと……どっかで仕事して……はあ、気は進まないが仕事はしときたいな。明日は特に何も考えてなかった。朝日と一緒にいようかな?』
「じゃあ明日、夜行バス降りた駅で待ち合わせましょうか」

 彼女は、ぼくの不可侵のゾーンを何を言うでもなく理解してくれている。ぼくがぼくの口から語る以上のことを聞いてくることはない。
 ただ一緒にいたり、いなかったりするだけの関係でいてくれるから、ぼくも救われたり、救ったりする関係でいたいと思う。

 集合場所と時間を打ち合わせ、「おやすみなさい、また明日」と互いに告げる。
 通話終了の文字を確認し、朝日は画面に反射する自分の顔を見た。

(また助けられてしまったな)

 明日はどこか素敵な場所に行って、冷たいものでもご馳走しよう。
 ベンチから立ち上がり、残りのソーダを飲み干す。最初に比べてぬるくなっていたが、今までで一番爽やかに喉を通り抜けた。太陽は没し、濃紺の星空になっていた。

   *

 翌日の朝。
 朝日は爆睡する兄弟を横目に早々に支度をし、居間で朝の十五分ドラマを見ていた祖父母と両親に「出かけてくる、夕方には戻る」とだけ告げて家を出た。
 結局昨日コンビニから戻ったあともぎこちなさは続き、それは一晩経ってもなお居座っていた。いつもよりそっけない物言いになったのは否めない。公園での通話で自分なりに気持ちの折り合いはつけられたと思っていたので、自分自身妙に機械的な物言いが出たなと驚いた。とはいえ弁明をするのも変だし……と結局そのまま無心で最寄駅へと歩いている。
 晴天だ。
「……」
 なぜだろう。早く烏口と合流したい。昨日は全然そんなことなかったのに、
 そういう気分というよりは、何か……引力とか、磁力とか、そういう引き寄せられるような感覚がある。早く会って顔が見たい。
 はやる気持ちを抑えながらバックパックのサイドポケットからスマホを取り出し、烏口へのトークに「北口で待ち合わせましょう」とメッセージを送った。
 
 電車の座席に腰を落ち着け、窓を流れていく光景を眺める。
 昨日来たときと同じ路線の逆方面だが、やはりデジャヴを感じる。でも、掴めない。
 不快なようで、居心地が良いような気もする。
 予定通り駅の北口で合流した烏口もまた、妙な違和感が続いていると打ち明けてきた。
「なんかね、視線を感じるんだよね」
 普段から、いわゆる仕事相手になりうるような女性から視線が向けられることはしばしばあった。しかしここに来てからは、性別を問わず特に中高年以上に妙に凝視されるという。
「チラッ、とかじゃなくて、凝視なのよ。ジーって。特にご高齢の方」
「ご老人にしか見えない霊でもついてるんですかね」
「悪魔なのに!?」
 げっそりとした様子だったので最初は重労働あけかと思ったが、結局昨日は仕事にならず、駅の屋上に飛んでぼんやりと過ごし夜を明かしたらしく、どうやらその掴もうとも掴めない奇妙さによる疲労のようだ。私のいないところでは一人で飛んだりしているんだなあ、屋上って眠れるもんかなと思ったが、言及はやめた。
 朝日も漠然とした気持ちの悪さを感じているものの、彼のほうがしんどそうだ。
 どちらからともなく、労うように背中を叩き合う。形容できない不安のようなものがお互いの手のひらから伝わってきた。
 何かが奇妙だ。それでも朝日の口から出た言葉は、休息の提案ではなかった。
「……歩いて二十分くらいのとこに小さい山があるみたいで」

 商業ビルがいくつか立ち並ぶ駅の南口に比べ二人が出発した北口は大変閑散としており、ものの十分で人が消えてしまった。
「こんな猛暑に出歩くの、受肉して初めてかも」駅で買ったミネラルウォーターを既に半分ほど消費した烏口は、あくまで飛行でなく徒歩で朝日と一緒に移動している。
 焼けるような太陽の熱さを肌に受け、それをぐつぐつ煮えるように照り返すアスファルトの上を地道に歩いている。そういえば、朝のドラマを流すテレビ画面の上のほうに赤い文字で三十五度とかいうアホの数字が出ていたな。
「人間の体はどうですか?」タオルを頭に被せた朝日が地図アプリを睨みながら尋ねる。
「めんどくさいね。重いし、体の器官が絶えず動いてるかんじが落ち着かない。人間として生きるって大変だねぇ」額の汗を雑にシャツの襟元で拭いながら烏口が答えた。
 最初から肉体を持って生まれた人間には気づき難い目線の感想を受け取り、まあめんどくさいのは間違いないですね、ていうか烏口さん霊体とスイッチできないんですか?などと曖昧な会話を続けながら、現在地のアイコンは徐々に目的地のピンに近づいていく。
「でもね、不思議なんだけど……」
 小さい建物の灰、植物の緑、空の青ばかりになった景色を見回しながら烏口が続ける。
「この光景とか、肌がじりじり焼けるかんじとか、覚えがあるんだよね。経験したことないはずなのに……デジャヴっていうの?さっき駅にいたときはなかったのに」
 もしかして前世の記憶?と冗談めいて笑う彼の”デジャヴ”というキーワードにハッとする。朝日は地図アプリから頭を上げ、烏口の顔を見つめた。
「私も同じ……」
 そして気づいた。
 そもそも自分がなぜこの山に向かおうとしているか、理由も知らぬまま歩き続けている。

  *

 ナビの示す通り、駅から二十分ほどで登山口に到着した。看板には案内がファンシーな絵で示されており、その脇に丸太でできた階段が続いている。
 
 つい先ほどまで現代の文明社会にいたはずなのに、まるで別世界のような森林が視界いっぱいに広がっている。二人はしばらく立ち尽くしていた。
「……あの」
 一瞬正気に戻った朝日が中止を提案しようと隣の彼に顔を向ける。
 明らかに青ざめた顔をした彼がいる。
「朝日、手え握って」
 差し出されるままに取った彼の手は驚くほど冷え、震えていた。
 ざわざわと緑が擦れる音と、自分の心臓の音を聞く。
 汗が伝う肌、それを冷やして吹き抜けていく風を感じる。
 お互いしばらく無言だったが、繋いだ手の感触で確信に変わった。

 我々はこの場所に来たことがある。
 離れないようお互いの手を強く握って、一段目を踏んだ。

 隣に流れる沢がじめじめと階段を濡らしていて歩きにくい。かろうじて両側に木製の手すりがのびているものの、風化していて汚れもひどく、とてもじゃないが頼りにくい。
 幸いこの田舎に来る前から散策は計画に織り込み済みだったので、今日は両名とも靴を履いている。とはいえ、この階段はただでさえ足場が心もとないのに、少しでも緩やかにするためか短いスパンで微妙に向きが変わる。木だって行儀良く並んで生えているわけではないし、ところどころ手すりが途切れて雑木林が遠くの低い位置に覗いているのが恐ろしい。
 ……これ、落ちたら山に突っ込んでしまって、戻れないのではないか。
 奥行きのバラバラな段々を不規則なリズムで踏み越えていく。
 会話はない。それでも手は離さなかった。

   * 

 十五分ほど登ると、遠くに小さな屋根付きの建物が見えてきた。休憩所だろうか。
 あそこでいったん止まるぞと暗黙の了解を交わす。休めると思った途端意識が現実に向いてきて……途中から階段の脇に紫色の花が咲いていることに気づいた。
「アジサイかな?」品種まではわからないが、普段朝日の家の近所で見るようなのとは違う形のものだった。こちらの言葉を受けた朝日が「そう言えば最初会ったときもアジサイに突っ込んでましたよね」と思い出話を語る。そんな余裕も生まれるくらいには気持ちが落ち着いてきていたが、休憩所のベンチが見えた途端二人の体は息の合ったシンクロでそこへ向かい、座面に落ちている葉など気にも留めず腰を降ろした。
 ようやく手を離し、二人は意識しながらゆっくりと深呼吸をした。蒸し暑い山の空気を肺だけでなく脳に向けても酸素を送るように吸い込む。
「はぁ、疲労感すら懐かしい、何これ、怖い~」烏口がどこを見つめるでもなく呟いている。
「私も、足ぎしぎし……」休みなく動かした太ももが痛い。
 なぜ我々はここに来たんだろう。酸素を受け取った脳が改めて疑問を投げた。
 足を揉みながらしばし思考する。そういえば歩くのに夢中で気づかなかったが、全てがよそよそしくも懐かしい奇妙なこの現実の中で、体や肺の痛みだけはしっかり自分と癒着している。うまく言えないが、”今の自分のもの”だ。
 どこか気まずさが蘇って辺りを見渡す。そして、先ほどのアジサイが妙に気になった。
 一人立ち上がって軽く尻の汚れを払い、階段の脇に咲くそれに近づいてみる。木は自分と同じくらいの背丈で、無数の小さな球を囲うように一回り大きな紫色の花が咲いている。
 タマアジサイだ。昔教えてもらったことがあった。場所もちょうどこんなかんじのところで、当時私はまだ小さかったから体を持ち上げてもらって……。
「朝日ちゃん!?」
 年老いた女性の声が自分の名を呼んだ。
 階段の上から老婦人が駆けてくる。片手に何やら色々な掃除用具が入った水色のバケツ、もう片手には膨らんだ紫の不織布バッグを持っている。後ろからついてきた同年代と思われる男性はシャワーノズルのついたボンベのようなものを脇に抱えており、最初は事態を飲み込めていなかったようだが、私と目が合うや否や慌てて階段を降りてきた。
「どうして一人なの? 予定は明日じゃなかった? 大きくなったわね、私ついさっき渋川さんから写真送って貰って……」「えと、すみません、どなたか存じ上げなくて……」
 老婦人はハッとして、優しく微笑んだ。「そうよね、もう十六年だものね。ええと、ちょっと待ってね……」そう言ってバッグを漁り、縦長のフォトアルバムを取り出す。
「覚えていないと思うけど、小さい頃よくうちの息子と遊んでたのよ」
 差し出された写真を見た朝日は、「ちょっとすみません」と断りメッセージアプリを開くと、手早く入力し送信ボタンを押した。
『知り合いと会ったので、もう五分ほど休んでいてもらえますか』
 
   *  

 山登りを再開していた。「どちらさまだったの?」という彼の質問を意図して無視し、「十分くらいのところにあるらしいです」と告げ、階段を上っている。烏口は流石に混乱を隠せないながらも、再度尋ねるわけでもなく、数歩先を歩く彼女についていく。
 休憩を経たからか、朝日の態度のせいか、先ほどの懐かしさは消え失せてよそよそしさだけが感じられている。なぜか道の脇に咲くアジサイだけこちらに寄り添っている気がした。

 果たして着いた場所は山の頂上……ではなかった。
「……お墓」
 途中から明らかに登山道から外れた石の階段を進んでいたので当初想定していた目的地ではなさそうだと薄々気づいてはいた。にしたってこんな、墓地だとは思わなかった。
 朝日は服のポケットから見知らぬメモを取り出し、敷地内を進んでいく。古いが比較的きれいにされている道を見て、この時期はそうか、ハカマイリシーズンだったなと思った。
 無言で着いていき、一帯のなかでも特に綺麗にされている墓の前で止まった。水に濡れて光っている石の塊には知らない名前が彫ってある。

 烏丸家之墓

「さっきの人ね、私も最初誰だか分からなかったんですけど」
 カラスマと名乗るその人には、暁という一人息子がいた。
 お人好しで自分よりも他人が喜ぶのを優先するような子だったので、周囲の老人や子供、世代を問わずあちらこちらに駆り出されてはお菓子やら野菜やらのお土産を持ち帰ってきていた。自分では手に余るからと周りの人に再分配して、そのお礼をまた貰ってきて、また再分配するような子だった。
 東京の大学に進学しても長期休みになると必ず顔を見せてくれて、そのたびに嬉しくてつい声をかけてくる町内の人たちの元へ、嫌な顔ひとつせず駆けていった。『体は疲れてもやっぱ嬉しいほうがいいよ、ぼくも周りの人も』とよく言っていた。
 カラスマサンは特にお隣さんとの交流が深かったそうで、アカツキクンはそこんちの、三人の、クソうるさい子供とも、仲良くしてくれていたらしい。
 その中でも特に、中間子の女の子に気に入られていたと。

 でも、ある夏、帰省中に事故で亡くなってしまった。
 そこまで喋った朝日はバックパックから一枚の写真を取り出し、ぼくに見せた。




「そこまで聞いてね、思い出したんです。私はさっきのアジサイの品種を知ってた。ここに一緒に来た人に教えてもらったから」
 繋いだ手や山の既視感。
 駅の老人が凝視してくる理由。
 我々がここに呼び寄せられたのも、そういうことなのかもしれない。

 そこから何も言わなかった。カラスマサンという人も、多くは語らなかったのだろう。
 二人で眼前の墓に手を合わせる。自分の骨が埋まっていると思うと不思議だった。




「ほんと、無事に完成してよかったね」
 校舎内に分野ごとに展示されているたくさんの作品、そのひとつに写真の連作があった。田園風景や、古い家が立ち並ぶ住宅街の曲がり角など何気ない日常を切り取った写真だが、どれも一部切り抜かれて空白になっている。アウトラインから察するに男性だろうか。
 展示されている順番に見ていくと、最後の一枚だけはただのポートレートだった。
 男性が山の中でただ立っている写真。男性の後ろにはアジサイが咲いている。

 烏丸暁はその展示の前に立ち、渋川朝日はその写真を撮った。

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