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「共有」について

最近ふた言目には「共有」って自分が言ってる気がして嫌になって来たので、「共有」について考えてみた。

なにかと「共有」される時代になってきている。言い換えると、「シェア」かな?
情報共有、物流共有、人材共有、農機具のシェア、シェアオフィス、シェアハウス シェアリングエコノミー、等々。
そして高度経済成長期以来、物事の尺度が経済一辺倒だったのに対して、最近はエコロジーや幸福度などという尺度が少しずつ重要性を増してきており、益々注目されている概念だと思う。

経済性 × エコロジー × 幸福度  =   共有/シェア

って感じ?
すごく良いことだし、大事なことだし、トレンドとしては歓迎されるべきものだと思う。と同時に、そこには見えない欠落があるようにも思う。

先日友人家族と一緒に農機具のシェアの話をしていた。お米を作るにはたくさんの機械が必要である。僕はあまり詳しくないが、種を蒔く機械、田植え機、コンバイン(稲刈りから脱粒から袋詰めまでやってくれる)、乾燥機、脱穀機、等。種まき、田植え、除草、稲刈り、脱粒、脱穀、乾燥など各工程ごとに一台100万円前後もするような機械を必要とするのだ。
普通に考えて、例えば村単位でその機械を全て共有すればよさそうなのだが、実情はどうかと言うと、それぞれの家庭の仕事の都合や、家族のスケジュールがあるため、人とシェアして順番待ちとかになると困るので、個々でこの機械を一式所有しているパターンが多い。共有しているのは乾燥機とか、脱穀機とかぐらいかな?
いずれにしても、年に一度しか使わないような機械を、一つの村でもそれぞれの家庭が所有していて、そのために各家庭が大きな農機具倉庫を建てていたりする。米価がどんどん下がっているこの時代に。

ではひと昔前の、農業機械が導入される前の米作はどうだったのか?もちろん地域差はあるが、田植えから稲刈りまで、村総出でやっていたところが多かったんじゃないかと思う。
人の暮らしの中心にまだ「農」があった頃は、個人個人の仕事や家族とのレジャー等の優先順位は低く、共同体として米を安定的に生産するために、それぞれが労働力と時間を共有してコミュニティが機能していたんだと思う。

個々の都合を優先しているため何も共有できず、結局個々が高価な農機具を所有してしまっている現代と、個々の都合の優先順位が低く、労働力と時間を共有することで成り立っていた過去。
もちろん過去の生活は今と比べて不便で貧しかったかもしれないし、それに対して現代の仕事や暮らしは便利で豊かかもしれない。だから、幸福度で考えると答えは出せないが、少なくとも経済性とエコロジーの観点で見ると、過去の方がよっぽど効率的であったように思える。ま、農業機械導入による生産性の向上は考慮に入れる必要はあるけど。

そして今、過疎高齢化が進む農村では、農機具メーカーが農機具をシェアするサービスを提供し始めていたりする。
田舎で農業に関わっていない人が増えてきている中、村落単位よりもちょっと広い範囲の市町村単位で、しかも第三者で機械の整備を専門的にこなせる農機具メーカーが中心となって共有できる仕組みを作ることはとても良い動きだな、と最近注目している。

とは言え、「共有」や「シェア」という言葉にはどこかまだ閉ざされた意味合いがあるように思える。ある価値観で結び付いたコミュニティ内で共有したり、企業が中心になって共有サービスを提供したり、と言う関係性は、あくまでも誰かが「所有」していることが前提となっている。そこには、利権がからんだり、力関係があったり、排他的な側面があったりする。「共有」の「有」は「所有」の「有」なのだ。

そこで登場するのが最近はやりのCommonsの概念である。
可能な限り拡大解釈すると、人類全体で共有している「何か」。
自然界も含めるべきなのかもしれない。
とにかく、「個人所有」と言う概念を外した、みんなの共有財産/資源。

また、インターネットはそうあるべきだと言う議論がある。
いまでこそテック大手GAFAM(Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)が覇権を握っているが、そもそも情報へのアクセスは人々の権利であり、それを所有して、利用して、金もうけをすること自体どうなのか?と言う話。

僕が関わっている「食と農」の分野でも、Food_sovereignty 食の主権)と言う概念がある。大企業による食糧生産や流通の主権を、食糧生産者やコミュニティが取り戻すべきである、と言う議論である。Food as a commonsって言う考え方もある。



さて、ここからは僕の持論なのだが、これからの時代において、経済性×エコロジー×幸福度=共有/シェアを考えていくに当たって、「所有」を外した「共有」を考えることが非常に重要なんじゃないかと思う。

人類史を見渡しても、今ほどあらゆるものの「共有」が進んでいる時代はないように思える。国境を越えて情報や想いを共有しているような時代は文字通り前人未踏である。そんな素晴らしい時代であるはずなのに、国同士、民族同士、人と人同士の争いは絶えない。

なぜか?

それはおそらく、本当に共有されるべきものがいまだに共有されていないからなんだと思う。

以前の記事で、インターネットはテレパシーの練習である、みたいなことを僕は書いたが、テレパシーのイメージって、例えば会話をしていないのに相手の考えていることが脳内に直接伝わってくるようなイメージ?
このイメージはおそらくSF映画とかから刷り込まれたものだと思われるのだが、マインドの論理的思考がテレパシーによって伝わってしまったら、そりゃあ争いが増える一方であろうことは容易に想像できる。

たぶん、本来我々に備わっているはずのテレパシー能力は、情報伝達のようなSF的便利ツールではなくて、論理的思考を超えたより高次な概念の知覚であり、共有なんだと思う。
愛とか、悲しみとか、慈しみとか。直感とか、兆しとか、気配とか、偶然性といった、目に見えない、言葉にできない情報の共有。それは、ドイツの生物学者、ユクスキュルが提唱した環世界(ウムヴェルト)に近いのかもしれない。今風に例えるならば「クラウドで共有する」のではなくて、「クラウドそのものに皆がなる」ようなイメージ?

そう考えてみると、結局ネイティブやアボリジニの人たちがアクセスしている世界そのものなのではないかと思い至る。
そこには、「所有」を外した「共有」が存在し、人もその一部として宇宙と調和して生きるための「情報共有」が成立しているのではないか。

ちょっと話が逸れるが、数年前に美術家の日比野克彦が亀岡のとある障碍者施設で話したときに言っていたことがすごく的を得ていていまだに心に残っている。
「障碍者が社会の中で居場所がないのは、我々の社会そのものが「成熟」していないからだ」
ということを言っていた。
私たちは人間社会の中で障害のある人たちと想いや暮らしを共有できているだろうか?
社会全体の幸福を考えた時に、基準をどこに置くべきなのか?
いわゆる「勝ち組」(めっちゃ嫌いなことば)に基準を置くのか、「社会的弱者」(これもめっちゃ嫌いなことば)に置くのか?

それはそのまま我々の暮らしを取り巻く自然に対しても言える。その昔里山が人の暮らしの一部だったころは、人と自然はある種の契約をベースとした共通認識を持っていた。大自然に対する畏怖のような感覚。もののけ姫の世界観。
いま我々はその大自然のことを、人類が自分たちの繁栄のために好きなだけ使える「資源」としか見ていないのではないか?

「共有」という概念の行きつくべき先は、利便性や効率など、人の利益のための共有を超えて、人類と自然界を含めた地球全体のwell being のための「共有思想」のようなものを目指すべきなのだと思う。
これまでの「成長」が、経済の量的な「成長」を指していたならば、これからの「成長」は、本当に「成熟した社会」に向けた、人類としての質的な「成長」を意識する必要がある。

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