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ここ数年考えていること

ヒトは豊かさを求めてグローバルな経済システムを形成したが、その結果メインストリームの市場には単一で面白みのないモノが溢れてしまった。
逆に、ローカルに視線を移すと、そこには無限とも言えるぐらいの拡がりを秘めた多様な世界があることに気づく人が増えている。

そもそも資本主義経済の始まりが、行き詰まったヨーロッパ社会から一攫千金を狙って大海原に漕ぎ出した大航海時代を発端にするならば、現代はその対象が「新大陸」から社会に潜む「新しい価値」を創出することに替わっただけで、テクノロジーであれ、ソーシャルであれ、己の様々な欲のためにリスクを冒して人を巻き込みながらスリリングな冒険にかまけていることに変わりはない。

むしろ、ヨーロッパ人がその独善的植民アドベンチャーの過程で出会った東洋の叡智にこそ、人類文明の存続のための鍵が眠っていることに気づいた1960年台の一時の夢も、結局ほとんどは快楽主義的な没入と西洋哲学的なロジック実験に終わり、世俗的な欲のスパイラルである消費社会に組み込まれて行ってしまった。

では、その東洋の叡智とはどんなものか?
梵我一如、色即是空、吾唯知足、などの仏教や禅のことばは、いずれも「我欲」のスパイラルからの脱却を示唆している。
そもそも現代の人類文明は、自らを生存させ、この星と共存して末永く繁栄していくための能力を既に持ち合わせている。
食料は必要以上に生産できているし、医療も肉体の限界を超えるほど人を長生きさせている。衣食住の不足もなく、自然災害は起こるが、人類文明の存続を脅かすようなことはもはやない。
ではなぜ、飢餓や戦争、貧困や差別はなくならないのか?
それは、われわれ一人一人が、そして人類社会全体がまだまだ未熟だからであり、ホモ・サピエンスとして「群れ」の統制の取り方が未だに確立されていないからである。


では例えば、突如として全人類がお互いの意識を共有できるようになったとしたらどうなるだろうか?

全人類が、あらゆる感覚、あらゆる想い、あらゆる感情を共有できるようなテレパシー能力を獲得したとしたら、こうした東洋的な思想の本当の意味がおのずと理解され、ヒトはとても平和的で素晴らしい文明を一から作り直すのではないか?と僕は夢想する。

テクノロジーは便利さよりも豊かさを重視するようになり、商売は真に必要なものだけに限定され、無駄なものを生み出したり、不要な欲求を掻き立てたりするようなことはなくなるだろう。

国や法律、警察など、社会を管理するための機能は必要なくなり、皆が皆自律的に存在し、お互いを認め合い、個と全の一致を前提とした、自然界にあるような幾何学的な構造を持つ社会になるような気がする。

そう、我々は人生の中で自分一人の夢を見ているつもりで、実は一人一人の夢が全体の夢と繋がり、大きなヒトとしての夢意識体を形成しているのかもしれない。
そのマクロコスモスはそれ自体にはなんの目的もなく、ただ摂理によって存在しているだけなのだが、未熟なヒト社会がその質を高められないことには、悪夢のようなカタストロフィに帰結してもおかしくない。

現代社会が今のまま突き進めば、環境問題、戦争、人種差別、貧困などの、社会の根っこにこびりついた問題は到底解決できないだろう。
社会全体として、そして一人一人の、根本的な考え方のレボリューションが必要である。

少なくとも、僕はもう次に行くつもりである。
インターネットやVR、ARなどの技術は、ただの練習に過ぎない。
ヒトはこうした能力を、その進化の過程で必要と感じたから、こうした道具を生み出してきたのだと思う。
地球の反対側の誰かとリアルタイムでチャットしたり、空想的創造物を目の前に物質化したり、必要な情報をいつでもどこでも引き出せる時空を超えたデータベースを共有したり。
自転車にしても、車にしても、飛行機やスペースシャトルにしても、ヒトはより早く、より高く移動したいと思ったから、そのための装置を作り出したが、そんなことをする生物は他に存在しない。
高い枝の葉っぱを食べたければ首を伸ばし、水中で自由に動きたければ水かきを発達させるのが生物の進化ならば、ヒトの進化の次の段階は、過去数百年で築き上げてきたテクノロジーによる能力を、今度は道具に頼らず、肉体的能力として身に着けることなのではないかと思う。

テレパシーの片鱗は、日々の生活の中に潜んでいる。会いたい、と思った人にばったり出会ったり、なんとなく惹かれて行ったイベントで人生を変えるような体験をしたり。偶然と呼ぶにはあまりにも必然的な出来事は、だれもが一度は経験しているだろう。

そこには法則性もある。

過去の出来事に執着しない。
これから起こることに期待もしない。
他人をあまり意識しない。判断しない。
「べき」は全て外し、自分の良い部分も悪い部分もありのまま認める。
マインドを常にクリアにして心の声に耳を傾けていると、それはやってくる。

はじまりは「直観」としてやってきたものは、その人個人の中で「意志」の働きにより「信念」となり、そこに「霊性」が加わり「祈り」へと昇華される。

人類の正しい進化の道筋は、世界各地の先住民たちの精神文明の方が正解だったのだと思う。
もはや現代物質文明を生きている我々は、SF的ハイブリッド人類として独自の「祈り」を獲得していくしかないのかもしれない。

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