中上健次『岬』『補陀落』における人称、視点のこと
『補陀落』:1974年4月初出
『岬』:1975年10月初出
『岬』において「彼」は絶え絶えに視線を感じている。『補陀落』をヒントに、その視線について考えたことを書いた。
1.『補陀落』の視点
『補陀落』は次のように始まっている。
第一文には「、と姉は言った」と地の文が辛うじて有る。続く第二文とそれ以降には姉の語りが延々と書き連ねられてあり、地の文は見当たらない。
むしろ姉の「口調」が語りのモードから明らかに逸脱して地の文めいたものになっていく。
といった風である。これは小説の書き方の標準から少し逸脱しているように見える。
小説それ自体を崩壊させかねない姉の饒舌が『補陀落』の魅力の一つであろうか。そこに作家の戦略を読み取ってもいいと思うし、作法を弁えないただの若書きだ、という評価もありうる。
再びその第一文をみてみる。誰の姉かを明示せず、ただ「姉」とだけ書く記述の感触からして、「私」の姉が語っているように思える。事実、この作品の中頃で次のような叙述が差しはさまれる。
「私」ではないが、「ぼく」すなわち一人称の視点が隠れていたということがわかる。この後で「おれ」という呼び方も出てくる。
とまれ、一人称ではある。
2.『岬』の視点
『岬』の冒頭をみてみる。
第一段落で三人称単元の小説と分かるが、第二段落では『補陀落』と同様「姉」と書かれており、「ぼく」の視点がまだちらつく。(試しに「彼は、」の部分を消して読んでみればよい。)
しかし「彼は、」というのが決定的で、読み進めるにしたがって三人称単元の小説として彼=私という約束を受け入れざるを得なくなっていく。その裡で「ぼく」の視点が翳んで忘れられてゆく。
「彼」=「ぼく」というのは内容のレベルで正しい。『岬』の「彼」が『補陀落』の「ぼく」であることは読めば明らかだ。けれども、「ぼく」だけが封殺される。もう「獣のにおい」を発している『補陀落』の「ぼく」が。
「ぼく」は「彼」に先んじている(そして『補陀落』の初出は『岬』のそれよりも早い)。予め「ぼく」はそこに居る。「彼」はそのことに気が付いている。
「ぼく」がみている。不気味にも、「あの男」として、「彼」をみている。「遠くから」というのは、ここでは未来からということで、時間的な謂いとして読める。その「ぼく」を「彼」は赦せない。
視線を焼き尽くすのは「彼」である。無論、これは実父への反抗である。しかし、三人称客観描写の文体そのものが反抗されているとも読みうる。
3.決着?
叙述からなめらかに叫びが導かれる。三人称客観描写が、「彼」=「ぼく」の規則が、この迫力ある文を可能にしている。「決着をつけ」るにはしかし、「彼」≠「ぼく」がせめて必要ではないのか。威勢とは裏腹に反抗の失敗が暗示されているようにみえる。
これでは精々「メランコリック」な解決しかない。「ぼく」を抱え込んで堕ちるしかない。実際そうなった。海を突出してためす岬となった。
「あの男」との決着は、「彼」=「ぼく」の規則との決着でもあり、ということはそれはメタレベルでの決着であらざるをえない。そのことが『補陀落』と『岬』の間に読み取れる。
果たして、『枯木灘』(1977)で中上健次は人称代名詞を捨てた。そのように中上健次に強いたもの、それは『岬』の冒頭からすでに潜在していた視線の問題であり、視点の問題でもあろう。
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