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役に立たないものたち

 役に立つ、ってものすごく幅の広い言葉だと思う。便利、実用的、貢献する、いい仕事をする、等々。チラッと辞書を見てみると、多くの意味が並んでいる。基本的にはポジティブな意味の言葉だけれど、ある言葉と結びついた「役に立つ」が私は何だか好きじゃない。

『社会に出てから役に立つ』

 俗っぽく言えば「金になる」。このフレーズが、やっぱり好きじゃない。というか嫌いだ。色々と理由はあるんだけれども、一番大きいのは、これが私の好きなものを否定されるためによく用いられてしまう概念だから、だと思う。

 私が大学で主に勉強しているのは、ポーランド語と中東欧近現代史。(マイナー)語学と歴史学。もうバリバリのド文系、所謂「真っ先に経費削減の対象になる系の学問」で「金にならないといわれる学問代表」と言えるでしょう。「大学で何やってるの?」の次に来る質問は99%の確率で「じゃあ将来何の仕事をするの?」だ。そんなもの私が一番知りたいです。

 じゃあ何のためにそんな勉強してるの?と聞かれてしまった場合、「好きだからやってる」以外の答えはなかなか他人に面と向かっていいにくい。私は、おそらく他の人が好きなアイドルやタレントについて「もっと知りたい」と思うのと同じくらい自然に、私はポーランドのことをもっと知りたいと思う。だから選んだ。それだけ。社会で役に立つかどうかって、そんなに一大事なのだろうか。そもそも殆ど触れたことのない分野の学問が役に立つかどうかなんて、私にも親にも先生にもわからない。それに極論、何を勉強したってそれを活かせる人と生かせない人はどちらも存在するのだ。

 確かに私の家は大金持ちではないから、卒業後は何らかの方法で金銭を稼がなくてはならない。自分や家族が暮らしていけるだけの金銭を得るために労働する必要があるわけだ。大学に通わせてもらっている以上、しっかり就職してコストに見合うリターンを回収してほしいという親の気持ちはすごく分かるし、私もそうあるべきだと思っている。けれども、数年前の冬、ポーランド語科に願書を出すと言った時に、父親と滅茶苦茶口論になったことは今でも忘れられない。「ポーランド語なんてやって何の役に立つんだ」と、何回も言われた。将来何の仕事に就くつもりなんだ。通訳?翻訳?外務省?現地で就職?語学だけじゃ働き口がないぞ。遊びで大学に行くわけじゃない、等々。

 高校生だった私は、自分が好きだ、勉強したいと思っているものを否定された気がして、悔しくて腹が立って、ボロボロ泣きながら怒った。なんでそんなこと言うの、仕事はちゃんと見つける、大学は職業学校じゃない、と。

 でも正直、殆どの人はポーランドについて勉強したいと思う人の気持ちなんて分からないと思う。それが何のためなのか、どうしてなのか、父親はきっとそれを知りたかったのに、私は自分の考えが否定されたみたいでヒステリックになってしまって、冷静に話が出来なかった。結果的に私があまりにも強情なので親が折れてくれた。ありがとうございます。

 この際「ポーランド語が本当に役に立たないのか否か」は、私が語るべき内容ではないと思うので置いておく。私が言いたいのは、「役に立つ」ことを過度に追い求める必要はない、ということだ。この世界はどんどんテクノロジーが進化して、社会はどんどん物質的に豊かになってきた。その結果、ようやく「役に立つ」を必死に追い求めなくても暮らしていける時代が来たんではないのかな、と私は思うのだ(もちろん人類全体がそうだとは言わないけれど)。

 だから一見、自分からしたら今後役に立たない、金にならないと思われることも、直接的な利益がなさそうなことも、他人が好きで、やりたいと思っていることならば否定すべきでない。そして、もし自分のそういった大切な物が否定されそうになったら、全力で守るべきだ。むしろ余剰を持つ豊かさを忘れて、一体どこを目指すつもりなのか。役に立つモノと人しかないディストピアだろうか。

 誰になんと言われようとも、入学から今まで、私は自分の選んだ大学を後悔したことなんて一度もない。14人しかいない同期は皆優しくて、仲が良くて、それでいて絶妙に変な人たちだ。それぞれ趣味も出身地も家族構成もバラバラな私たちの唯一の接点はポーランドへの興味なのだと考えると、本当にポーランド語科を作ってくれた人ありがとうという気持ちになる。尊敬する先輩もたくさんいる。勿論どんな場所でも素敵な人たちとの出会いはあるのだろうけど、大学の学科で出会える人たちには「大学でポーランドについて勉強しようと思う人」という強力なバイアスがかかっているのだ。これはあまりにも強い。同じものに対する興味、関心がある人と関わることは本当に大切だし、自分とは異なるルートで同じ場所にたどり着いた人の考え方もすごく刺激になる。そういう人たちと会話する中で得られる様々な気付きは環境ありきだし、私が私としてその場に存在したからこその気付きだ。とにかく、自分と同じ興味関心を持つ優秀な人たちに囲まれた環境を手に入れられたことは、ポーランド語科を選んだことの大きなメリットだと私は思っている。学科には一つの学問分野としてだけでなく、人と人とが出会うプラットフォームとしての役割もあるということ。それは結果として何ができるようになるかではなく、結果までの過程で何が得られるかの話で、きっと私が重視したかったのは後者だ。

 死ぬまでには絶対行きたいと思っていた国に留学出来て、素晴らしい人間関係に恵まれ、自分のやりたかった勉強ができている。正直これ以上の大学生活のイメージが湧かない。この私にとって最高の学びの場所を「役に立たない」などという客観を装った極めて主観的理由でつぶしに来る輩がいるのなら、私は一歩も譲らない。という気持ちでいたい。

 実は、もう一つの私の大切なもの―博物館や美術館も同じような問題を抱えている。(私は博物館や美術館に出かけるのが趣味です)「役に立たない」と思われているから、予算や人員が削減さているのだ。私の好きなものはことごとく「役に立たない」カテゴリーに入れられてしまうのは何故だろう。

 もうこうなったら、私は功利主義の風潮と徹底抗戦するしかない。役に立たないものたちを社会から、私から奪わせてたまるものか。必要不可欠ではない学問に興味のある人たちがいて、製作者不明の小さな絵画が誰かの心を慰める。社会の中心の大通りから少し外れた裏道で、そこにしかない喜びを見つけている人たちがいるのだ。役に立つ立たないを超えて、存在するだけで価値を持つものも、世の中には沢山存在する。例えば人間とか。

 物事が役に立つか立たないか、そんなことはその時が来るまで分からない。未来を予知できるわけでもないのに、始めから利益に直結するものだけ選び取ろうなどという考えは傲慢だ。ならば、正しいかも分からない有用性のふるいにかけて選択の幅を狭めるほど愚かなことはない。もっと視野を広く、というか長い目で見る、というか。そもそも、取捨選択の基準が役に立つか立たないか、すぐに使えるかどうかだけだなんて発想は、なんというか、すごく貧しい。

 役に立つからという理由で選んだものは、役に立たなくなったら不要になってしまうだろう。自分が何かを好きだと思う気持ちは、自分が世話をしてやればいつまでも枯れない。私はそういうものを大切にしたい。ポーランドも中東欧近現代史も美術館も読書も旅行もお菓子作りも、何かの役に立てるためではなく、ただ自分の喜びのためだけに好きでいたい。それにきっと、「役に立たない」ものを愛好する権利を誰もが当たり前に享受できる社会というのは、真の意味で自由で豊かな温かさがあるだろう。


 まあそれはそれとして就職はしっかりやらなきゃなんですけどね!

また長々と書いてしまいました。ここまでお付き合い頂いた方、どうもありがとうございます。毎回締め方が分かりません。




 


 



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