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お堀端のビルと、具なしの煮込みうどん

空腹を噛みしめた後の雲丹丼は最高だった。ビールも胃袋に染みる。この店はかれこれ30年近く通っている。道路を挟んで地方庁舎と警察署が並んで立っている。ほぼ100%オッサン御用達。

畳敷きに4卓、カウンターが8席の小さな店で、口数の少ない店主ときびきびした奥さんの二人で切り回している。任侠映画に出てくるような渋い顔に、今日は灰色のマスクを着けていた。大分白髪が目立つようになった。

海鮮ものが間違いなくおいしい。カツ定食を頼む人の気が知れないが、近辺には手頃な定食屋がないから、お互いに持ちつ持たれつと言うことだろう。

11時半に店に着いたら、一番乗りだった。10分後には満席になる。そして、しばしば失敗するのだが、1時半を過ぎると大概暖簾が降りてしまう。その後は4時過ぎまで待たねばならない。

今日は持ち帰りの受け取りがひっきりなしだった。運び屋は部署の中の下っ端。両手一杯にぶら下げていく人ばかりだ。正規職員だろう。給料はどのくらい貰っているのかな、賞与も支給されたろうな。うらやましくて、涎が出そう。

みみずにも、公務員になる機会はあった。地方公共団体職員を受験して、最終面接まで行ったが、民間の方を選んだ。

役所の面接会場は天井が低く、薄暗い建物だった。面接官はオッサン。言わずもがな。一方、民間会社の面接は、お堀が見えるビルの10階か、11階だったか。シェラトンとは言わないが、壁も床もピカピカで、窓からの景色にうっとりした。面接官も、眉目秀麗、若手の人事課職員が駆り出されていた。

よく仕組まれていたと、今にして思う。

その後配属された営業店では、昼時になると気が重くなった。どうしたらこういう献立ができるのだろう、いつも不思議だった。茶色くなるまで煮込んだホウレン草の味噌汁、跡形もなく崩れた南瓜の煮つけ。規則で外出は禁止。

ある日の献立は、煮込みうどんと書いてあった。蒲鉾の切れ端が載っている他、うどん以外の存在を確認できない。同僚が「これだけ?」と聞いた。勇気あるな。

「ご飯もあるよ」

年明け間もない、暗くて寒い日だった。

その年の3月、みみずは会社を退職した。


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