戦のシーンが想像できない

 お久しぶりです。
 ただの谷間に落ちてしまった小的です。
 端的に言って、なかなか筆が進みません。
 ですが文章を書く事は好きなので、ここで白状します。
 書いてるうちに解決策を閃いたら御の字。何の解決にもならず、やたら長ったらしい謝罪文となってしまっても、まあ よし。だって どうせ誰も見ていないのだから!

 というわけで――まず、どこで躓いているのか。
 これは明白です。
 話の流れや登場人物の成長などは粗方できあがっているのですが、戦のシーンが空白のままなのです。

 では次に――なぜ、戦のシーンが書けないのか。
 これも明白で、原因は二つ。
 一つは、自分の中に信じられる正解がない事。
 そしてもう一つは、ごまかせない事。
 これはどちらも大問題です。

 現在はある程度の想像がついているのですが、それでも当時の戦がどのようなものだったのか、未だに曖昧です。
 こうなると、本当はどうであったかなど、もはやどうでもよく、大事なのは僕自身が「こうであったに違いない」と信じられる事なのです。
 しかし今の僕が信じられるのは、せいぜい『山本勘助は軍学書の類をまともに読んだ事がないと自白している事』と『そんな勘助さんが提案した八陣より謙信の車懸り戦術の方が勝《まさ》っていた事』『そんな勘助さんに頼っていた武田家よりも「闘戦経」を相伝してきた毛利家の方が……』これ以上は信玄公に祟られそうなのでやめておきます。

 とにかく、大陸のような平原がない日本において、大陸と同じ戦い方をしていた可能性は極めて低く、大々的に陣形を整えて動かしていたとは考えにくい。これは戦場の広さや高低差などからして おそらく間違いない。たとえそれが小規模な戦いであっても、いやむしろ小規模な戦いでこそ、相手の一瞬の隙(好機)や地形(地の利)、そしてお互いの士気などに注意し、その時々に応じた戦いを行っていたのではないだろうか。型で戦えるほど単純な地形ではないし、敵との距離が近いぶん、戦場という舞台ではなく、敵地あるいは自領での戦闘という性格が強かったはずで、だからこそ型にはまらず柔軟な戦い方と敵味方の強い意識を必要としていたと思う。
 まさに天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずという事だ!
 ん? あれ? これは大陸の偉人が仰っていた事ではないか?
 まあいいか。
 もう眠いし、寝ます。
 おやすみなさい。

 追記します。

 僕をもっとも悩ませている人の話を書き忘れていました。

 その人とは、東照大権現という権威の権化みたいな神名で祀られている方です。徳川家康公です。
 僕は権威主義的なきらいがあって、これだけ「違う違う!」と言っていても自分自身の考えや発言にイマイチ自身を持てずにいます。
 参考にされた先生方からすれば迷惑千万だと思います。勝手に参考にされた上で「しかしこれは本当だろうか……イマイチ信じられん」と言われるのですから本当にひどい話です。
 だからでしょうか、そんな無礼を働く僕には神罰が下りました。
 なんと、徳川家康公はまともな槍部隊同士の戦いを生涯で一度しか見ていないというのです。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣ならまだしも、その他の戦も含めてたった一度しかまともな槍合わせは見ていないというのです。じゃあ逆にその一度が気になるところですが、問題はそこではありません。三河武士とともに有名な戦をいくつも戦い抜いてきた家康公のはずなのに、そんな人がまともな槍合わせは一度しか見ていないという事が問題なのです。

 さて、戦国時代の日本では、いったいどんな戦いが行われていたのでしょうか。

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