泣く事は信号、物語は媒体――感動して泣くのは社会的で本能的、泣かずに考えるのは個人的で理性的。

 お久しぶりです。円治です。
 突然ですが、ドラマとは基本的に観賞者を想定して作られるものかと思います。

 そういう商品開発的な目線に気付けたのはつい最近の事ですが、素人の脚本家が考えすぎても仕方のない話なので、今はここにまとめて、おしまいという事にしようと思います。

1.物語とは、状況とそこに至る過程を他人と共有するための媒体である。

2.泣く事とは、共有させるべき状況とそこに至る過程を体験した個体に色を付け、共有させるための信号である。

 つまり、人は泣いてしまう事で自分の失敗や成功を社会に物語らざるを得なくなるのである。

 たとえば、Aくんの身に泣きたくなるような負の出来事が起こる→Aくん、泣く→周囲の人がAくんに泣いている理由をたずねる→Aくん「カクカク シカジカ」と物語る→周囲の人はAくんの物語(失敗談)を聞き、二の舞を演じないように気を付ける事ができる。

 またあるいは、Aくんの身に思わず泣いてしまうような正の出来事が起こる→Aくん、やはり思わず涙する→周囲の人がAくんに泣いている理由をたずねる→Aくん「カクカク シカジカ」と物語る→周囲の人はAくんの物語(成功談)を聞きて、真似できるようになる。

 そして、これだけでは泣いた本人や物語った本人に得がなく、おそらく機能しない。

 だから「泣くとスッキリする」とか「話すと楽になる」と言うわけだ。
 だから基本的に人は泣いている人に優しいわけだ。

 しかし、泣いてたって当人の問題は解決しない。失敗は取り消せない。泣くほど嬉しかった事を他人に話しても自分の得が増えるわけじゃない。むしろパイの奪い合いが始まるかもしれない。

 だから人は泣くのを我慢するようになった。

 けどやっぱり泣きたい。
 泣けるタイプの人は泣きたい。
 なぜならそれは本能だから。

 そこでドラマの出番!

『泣く』という社会的で自分のためにはならない本能的な欲求をそれでも満たしたい個体には安心して泣ける状況が必要。

 そのための商品がドラマ。
 泣けるドラマ。

 笑えるドラマもたぶん同じ。
 安心して笑える(バカにできる)商品、それが笑えるドラマ。

 そして、笑わせる場合は純粋に笑わせる事だけを考えればよいのだが、しかし泣かせる場合は違う。

 嬉し泣きも悲し泣きもせず、「さて今の感動は何だろう」と考えだす人がいるからだ(痛み泣きは身体的な理由が強く、物語との結びつきが薄いという事にして除外)。
 それが多様性というもので、種が生き残るための当たり前。同じ状況にあっても、同じ過程を経ても、それを泣いて周囲に伝える個体と泣かずに分析する個体が必要。

 したがって、泣かせるドラマは泣ける個体を泣かせる事と、分析する個体を唸らせる事が必要。

 今まさに共有すべき状況やその過程を描く事が必要。
 分析する個体も満足させるためには、さらにそこに一捻り加える事が必要。

 つまり、今学ぶべき歴史をドラマにするのは最高って事!


 追記

 状況とそこに至る過程だけじゃなくて、問題とその解決策というのも当てはまる気がします。

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