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人間かカナブンか


20代の頃、僕が住んでた家賃一万七千円の木造アパートには、風呂は無くトイレも共同で、もちろんベランダなどあるはずもない。
洗濯物は、屋上の共同物干しスペースに干すことになる。
もちろん物干し竿などという高級な物は無く、ロープが2本張ってあるだけだった。

屋上へ上がる階段横には、そのアパートのヌシ的な、麿赤児さんみたいな得体の知れない老人が住んでいた。
洗濯物の山を抱えてその麿部屋の前を通るわけだが、その時はいつも緊張した。
少しでも物音を立てると、麿さんが怒り狂うのだ。
しかし僕より遥かに年上の木造アパート、どれだけすり足でゆっくり歩いても、軋み音を止めることは不可能だった。
その都度、怒声と共にドアが開き、何か物が飛んで来るのだった。
麿さんが投げる獲物は、サザエの殻が多かった。

ある夏の昼間、僕は洗濯物を抱えて屋上へ上がった。
珍しく麿さんは留守だったようで、足音を立てても無反応だった。
ということは、屋上で遊んでも大丈夫だということだ。
手早く洗濯物を干した僕は、Tシャツと短パンを脱ぎ捨て、パンツいっちょになった。

僕の部屋の冷房設備は首振り扇風機だけであり、窓を開けても30㎝手前がお隣のアパートの壁であり、風は一切通らなかった。
ゴキブリがよく出るアパートではあったけど、真夏になると、暑さのあまりゴキブリも腹を見せて死んでいた。
だから麿さんがいない時を見計らって、屋上で裸になり、水を浴びるのだった。

ついでに体を焼こうと、バスタオルを敷いて寝転がった。
サングラスなんてオシャレな物は持ってないので、目の上にタオルを乗せた。
昨夜は夜勤のバイトで寝不足だったので、そのまま眠ってしまった。

……。
………。
…………。

てーてれてーれーてーれーてー

……なんかどこかから「金曜ロードショー」のテーマが聞こえて来るな。
この「金曜ロードショー」が僕の映画好きの原点であり、今こうして食えない役者に身をやつし、毎日一平ちゃんを食って生きているのも、ひとえに「金曜ロードショー」のせいだ。僕の人生を狂わせやがって。
しかし誰が、こんな時間に「金曜ロードショー」観てるんだ。

……いや、これは僕の携帯の着信音だった。
「……はい、もしもし……」
「あれ、ハッシー寝てた?」
電話の相手は、芝居仲間のトモエ(仮名)だった。
「うん、寝てた。でも本来寝るべきでない所で寝てたから、めっちゃ体痛い。起こしてくれてどうもありがとう」
「どうせまた、酔っぱらって道で寝てたんやろ。あんたその内身ぐるみ剥がされんで」
「剥がされて惜しい服も着てへんし、サイフにも小銭とTSUTAYAの会員証しか入ってへんから大丈夫。……で、なんなん? なんの電話?」
「あんな、S監督の映画に出ぇへんかって話が来てるねん」

自主制作映画出身のS監督は、あまりメジャーではなかったが、勢いのあるパワフルな映画を撮る人だった。

「おっ、ええやん!! どんな役!?」
「主役」
「そんなん、やらへん理由無いやろ!! なんなん、なんか引っかかってんの!?」
「……濡れ場があんねん……」
「……ほう……!!」
「それも女性上位とかやねん!!」

堀北真希似のトモエの濡れ場を想像して、ここでやっと、キッチリ目が覚めた。

「なぁ、ハッシーはヤスエ(仮名)が濡れ場とかやっても平気?」
トモエは、当時の僕の彼女の名前を出して来た。
「そうやなぁ……。そのシーンがホンマに意味のあるシーンで、綺麗に撮ってもらえるならええと思う」
「……そうかぁ。私も出た方がええと思う?」
「出た方がええと思う。……まぁ俺は、トモエの女性上位が見たいだけやけど……」
「あほぼけ死ね!!」プチッ
トモエは怒って電話を切った。
せっかく、人が親身に相談に乗ってやったのに。

「トモエの濡れ場なんか見たないわ!! そういうシーンは、美人でスタイルもええ女優さんがやるからええんやん!!」
ノリヤス(仮名)が、酔っぱらって大声を出した。
いつもの超安い線路下の居酒屋で、同期のノリヤスと吞んでいた。その店はとても安いのだが、どの料理もみんな微妙に不味かった。
でも僕は知っている。ノリヤスがずっとトモエに片思いしていることを。
ノリヤスは、「見たくない」んじゃなくて、「見せたくない」んだ。

結局トモエは、その映画には出なかった。

後に、ノリヤスが意を決してトモエにアタックしたが玉砕し、自殺未遂していたことを聞いた。
大阪城のお堀に飛び込んで死のうと思ったが、寒いのでやめたそうだ。
ノリヤスはサービス精神旺盛なので、話を盛ってる可能性は大いにある。
ただ失恋したことは事実なので、酒をおごった。
いつもの、安くて不味い居酒屋で。

あれから20年以上たったある日、すっかりメジャーになっていたS監督が、突然過去作での性加害行為を告発された。その後、「私もやられた!」「私も!」「私も!」と告発が相次いだ。どうやら、相当な常習犯だったようだ。
トモエが断った映画を、後に観た。後のS監督の作風とはイメージの違う、前衛的かつ静かな作品だった。濡れ場は、一切なかった。ただ、ストーリーは有って無いような作品なので、濡れ場をねじ込むことは可能だっただろう。
実際に主演した俳優さんは、断ったのだと思う。「無駄に」脱ぐことを。

トモエは、その後結婚して役者は辞め、今やすっかりお母さんだ。
今になって思えば、その映画に出なくて良かったし、「無駄に」脱がなくて良かったし、そもそもS監督に会わずに済んで良かったと思う。
あの頃の僕やトモエは、なにがなんでも「いい役」が欲しかったし、そのためなら理不尽な要求も飲んでいただろう。
結果いい役を貰い、一瞬だけ自己肯定感が満たされても、冷静になった時に残るのは後悔と自己嫌悪だけだ。友達や仲間に、そんな重たい物を一生背負って生きてほしくはない。
役者を辞める時に、いろいろ葛藤はあったと思う。でも、今のトモエが本当に幸せそうだから、その選択は正解だったはずだ。

ちなみに僕自身は、辞めずにがんばってる芝居仲間が、映画やドラマでそれなりの役を貰ってたりすると、嫉妬の炎に身を焦がす。今でも。そして、自分の小ささに愕然とする。
自分自身のことになると、その時その時の選択が正解だったのか否かは、わからない。多分、死ぬまでわからないのだろう。いや、死んでもわからないかもしれない。
来世もちゃんと人間に生まれ変われたら、前世の選択は正解。
カナブンとかに生まれ変わったら、前世の選択は不正解。
今のところ、カナブン優勢な気がする。




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