『亡国のイージス』(福井晴敏)

上下巻読んだ。

この手の本は、漫画が読みやすいのだが、連載が途中で終わってしまっているので、小説を読んだ。ちょっと読後かなり時間がかかっているので、イマイチな感想文になっているかもしれないが、お許しを。

(安全保障法制が執筆時に比べて随分と変わっているので、現状においてはここまでひどくはないのだろうが、)まあ、専守防衛の現実というか、自衛隊にまつわる法律的な環境の劣悪さ、を見せつけられるのが、この小説である。
小説としても大変面白く、ハラハラしながら読める。

話の筋としては、内部崩壊を通じてイージス艦を乗っ取られる話である。そして、核ミサイルのような危機が日本に迫るというストーリー。前半の部分は、『銀河英雄伝説』におけるヤンのイゼルローン要塞攻略をイメージしていただければ良いだろうと思う。後半の部分は、専守防衛なので先制攻撃ができないといことはどういうことなのか、その中で働く自衛隊の方々のやるせなさがよく伝わる。おそらく、「完全なる専守防衛では、防衛できない」といことがよくわかる。防衛できないだけでなく、自衛隊員が無駄死にしてしまうのである。そして、全くこの通りのストーリーがありうるのかどうかは別として、ちょっとした作戦で、似たようなことは起きてしまう気がする。軍事的な脅威が、全くの夢物語ではないことがわかる。

このようなストーリーを提示されると、日本国民を軍事的な脅威から守るためには、法整備と有事のオペレーションの準備が必要であることに気づく。

ミサイルが飛んできた時に、どのような場合に誰がどう対処して破壊するのかの定義は必要だろうし、ミサイルが飛んできてから対応するというのは難しい。先制攻撃で大きく都市を破壊されてからの軍事的な対応では厳しいものがある。なので、ある程度の脅威が近くに迫った時点で、適切な対処を行わないと、軍事的な脅威には対応できないことがわかる。装備や自衛隊自体は強くても、法整備と脅威に対するオペレーション設計ができていないと、軍は弱い。戦力は良くても、作戦がイマイチだからである。それでは、戦力整備の労力とお金も効果的ではない。

また、脅威として予め想定できるミサイルはまだ良いが、脅威というものは全て予測できるものではない、ことはさらなる論点だ。予測されていない危険物に対する対処というものに日本の法制はめっぽう弱い。今の世の中、想定してない危険物が、身近になるリスクは十分あるのにだ(そもそも、効果的な戦術というものは、相手が予測し得ないものを繰り出すことにあるのだから、攻撃してくる相手は、それを狙ってくるのだ)。

「領土・領空・領海の内部、またはその近くに、危ないものがあった場合、臨検して、受け入れられないければ、さっさと破壊する」という一般的な対処ができないと、予測できない脅威から身は守れないだろうと思う。ミサイル法制は対処したが、「新たな脅威が出てきたら、国会で審議を始める」では、国が滅んでしまうのである。

この辺りは、トランプ大統領のアメリカ合衆国という有事のあてにならなさ、隣国北朝鮮が東京を滅ぼす兵器持っているという事、中国がバンバンミサイルを整備し他の軍隊を増強し、かつ、中国の国土は国力が高まれば当然拡大すべき、というめちゃくちゃな考えを持っていることを鑑みれば、「うちのテリトリーで危ないことすれば当然破壊するからね、その戦力もあるし」という構えをしっかり日本国として持っておくことは重要であろうと思う。

というのはありつつ、この本の主張の中で、全く賛同ができないのは、国の主体というものである。「昔は、明治政府(元首たる明治天皇とその取り巻きである高級官僚)という国家を守るために軍隊があったが、今の自衛隊にはその守る対象がない。防衛対象を失った亡国のイージスである」という主張であると思うのだが、私はこれは間違いであると思う。

自衛隊の保護する対象は、国家ではなく、国である。国家は元首と高級官僚といったものを意味するが、国とは、国民であり、領土・領空・領海である。この時代、土地はどこでも暮らせるのかもしれないが、大事なのは国民であり、国民の命を守るというのが、自衛隊の目的であり、防衛対象は国民の命であろう。そういった意味で、現状でも災害派遣など国民の命を守ってくれているのは自衛隊である。その位置付けを変える必要はないだろう。国民の誰もが、「内閣総理大臣や内閣の大臣・副大臣、霞が関の高級官僚」個人を守るための自衛隊など期待はしていないだろう。それらの人々は、当然、一般国民として軍事的脅威から守られるべきではあるが、その人たちの維持が自衛隊の目的ではない。このあたりははっきりさせておかないと危ない論理であると思った。



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