書評:『歴史入門』(フェルナン・ブローデル)

日本語のタイトルに釣られて買ってしまったが、原題は"la dynamique du capitalisme"(仏)="dynamics of capitalisme"(英)=『資本主義の原動力』とすべきもの。筆者のフェルナン・ブローデルが歴史学者の大家であるために、訳者や出版社が後付けでこんな名前にしてしまったのだろうと思う。実によろしくない。

「歴史入門」というタイトルに惹かれて買ってしまったのだが、内容は全然違う。資本主義の定義と成り立ちについて1950年ぐらいに書かれた本である。歴史と言いながら、せいぜい13世紀の頃からしか書いていないという名前負け具合の内容である(これは、訳者か出版社がしょぼいだけ)。一方、原題通りに資本主義の話と取ると話は別である。筆者は、資本主義がなんたるか定義が不明確でない時代に、資本主義の解析と定義を歴史学的な観点から試みた人である。そういう意味では、読み応えがある。

歴史全体については当然として、資本主義がなんたるかについても『サピエンス全史』を読んだ方が正しくてわかりやすいのは、筆者の研究をのちの歴史家たちが参考にして発展させたからである。だから、資本主義が何か、についてこの本から学ぶことは、あまり効率的ではない(し、おそらく正確でさえない)。

この本が面白いのは、資本主義とはなんなのかよくわかっていない時代に、資本主義はなんなのかを考え、発見した人の思考の過程をたどることができることである。また、資本主義が空気のように当たり前になってしまった現在ではわからない、その前の時代との差分をこの本から学ぶことができる。

この本を理解するためには、21世紀の資本主義と1950年代の本当の資本主義の違いを予備知識として理解しておく必要がある。すなわち、ドラッカーのいう通り、21世紀は修正資本主義である。昔との大きな違いは、資本家が一部の人ではなく、一般庶民であることにある。ドラッカーはこれを「マルクスの共産主義の定義に当てはめれば、もっとも共産主義的な社会体制」と皮肉った。要するに、最大の資本市場の株主(=資本家)は、年金基金であり、そのオーナーは一部の個人ではなくて、大衆である。1950年代の資本主義は、ロックフェラーなどの一部の資本家が全体の中で大きな資本を抱えていた時代とは違う。この本ではロックフェラーの時代の古い方の純粋資本主義の話をしていることに注意が必要だ。

その上で、フェルナンは資本主義の話をしている。中世の経済があった。そこでは、オープンな市場で取引をしていて、価格というものは、神の見えざる手によって決まるので、市場価格という単一の価格に落ち着いてくる世界がある。ところが、資本家が現れると、会社組織の中で、プライベートマーケット(私的市場)を作り、オープンな市場から取引を切り離してしまう。これが、王様でも国家でもない、豪族的な成り立ちを持つ資本家による市場経済という意味で、新しい資本主義と呼んでいる。

今では当たり前すぎて意識もしないが、私的市場とは例えば、apple社のapple storeである。ああいう、自前のエコシステムを構築し、外の人たちを排除して、独自の市場世界を作ったのが、資本主義である。それまでは、全部オープンな市場しかなかった。

もう一つのわかりやすい例は、証券取引所であろう。東証などは誰でも株式を買える。これが昔の市場的なオープンな市場。一方、証券会社間のプライベートマーケットがある。場外取引と呼ばれるが、これが、私的市場である。この私的市場がメインになる経済が、資本主義。一部の株式投資家の力が全体の中で強くなると、私的市場が力を持つようになるという話。

フェルナンの話は、「プライベートマーケットができても、庶民は市場で取引するわな」という意味で、マルチレイヤーで社会が動いていることを前提としている。独立したマルチレイヤーを認めているところが、歴史家として新しいところであったということが、解説を読んでよく分かった。

巻末の方に、産業革命がなんたるかの説明があるが、この説明は、のちのドラッカーやサピエンス全史の方が正確だろうので省く。ドラッカーは、産業革命は蒸気機関によってもたらされたのではなく鉄道によってもたらされたと言い切っているし、帝国主義と産業革命の話は、科学の精神という接着剤でサピエンス全史で語られていることが正しいと思う。後世に生きる我々とからすれば、フェルナンは、その分析思考の事始めであったという結果論があるだけだ。

しかし、この手の本を読んで思うのは、西洋文明の外側にある日本の視点から欧州の歴史を見ると、4世紀ぐらいまでのローマ時代の先進性と、その後の1000年の中世の停滞にびっくりする。1000年に渡り、欧州の人々は効率の悪い無駄な社会体制の中で生きてきて、しかも、それは、ローマ時代という先進的な時代から大きく退化している。蒸気の発見など、ローマ時代にすでにされているし、水車などを使った動力の利用もローマ時代にあるのだ。なんたる停滞、中世のキリスト教社会の効率の悪さたるや、唖然とする。

そして、その後に出てくる科学の強力さには、びっくりするのである。

フェルナンは、日本の中学校の歴史たる年表を覚える一次元的な世界観から、科学的な多面的な分析に歴史を持ち上げたという意味で偉大なのだろう。


感想

こういう文脈で見て見ると、日本企業における科学は死んだなと思う。で、日本は落ちぶれたと思う。昨今、日本企業は、色々なことを統計的にやる科学的な西海岸のベンチャー企業やアジア企業にぼろ負けしている。日本は昭和は科学の国だったはずだが、平成に入り、法律・コンプライアンスや主義主張中心の三流宗教が蔓延した結果(=東大法学部的なエリート官僚的なそれ。やってることに科学的な根拠がない)、統計も科学もわからない経営者が増え、科学的な判断ができなくなったことが、今の没落を招いている気がしてならない。昔は井深さんでも本田宗一郎でも科学的だったしなー。今でも、やってることに科学があるトヨタ式のトヨタなどは見事に生き残っているわけだが、鉄鋼だろうが、油圧ポンプだろうが、科学を無視して改竄してる有様で、科学の死だよな。これって、経営者が科学じゃないんだと思う。

と、思考が歴史によってきてしまうのは、フェルナンがやっぱり歴史の大家であることを示しているのかもしれない。本のタイトルを決めた人も、本の売れ行きと、フェルナンパワーにやられてしまったのかもしれないと思う、今日この頃である。

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