書評:『住み開き』(アサダワタル)

三浦さんの『第四の消費』からのこの本である。第四の消費の兆候として、この住み開きが三浦さんの論である。

1:工芸品の広まり(大正時代前)
2:大量生産品の世帯への普及(フォード)
3:ブランド品の個人への普及(ウォークマン、ルイヴィトン)
4:第四の消費

というのが、三浦さんの論なのだが、住方面の第四の消費の兆候が、この住み開きにあるという。

私風に解説すると、第四の消費は、ただ消費するだけではなくて、

・参加型であり自分も一緒に作る
・ものではなく、人との繋がりや自分の振る舞い自体に価値を見出す。体験を共有する

という事かと思う。具体例があった方が良いというのの、具体例がこの住み開きである。いわゆるシェアハウスのようなものもあるが、自宅の一部を一般に解放して、色々な人たちの集まる場に使っている事例集がこの本である。

この手の活動は、確かに上の第三の消費には繋がらない。この手の消費は、市場シェアno.1の積水ハウスの家を立てる必要もないし、設計を安藤忠雄に頼む必要もない。自宅を開いていく事で、楽しみを得ることができるという話である。

その内容は、自宅を図書館にしたり、イベントスペースにしたり、音楽などをするスペースにしたり、赤ちゃんがいる人同士のスペースにしてネイルなどの講座をして見たり、中には、避妊をしないセックスのみが禁止の過激なシェアハウスなどもある。

その事例が良く載っている。

感想

いわゆる、自由な、とても左な人たちの事例なので、私はひいてしまったのであるが、今までの1、2、3の消費にはない、新たな価値観を良く示していると思う。

もう一つ思ったことは、サピエンス全史ドラッカーが指摘している通り、「中世の家族と地域コミュニティの時代の共同体のあり方が、産業革命で破壊された後の、共同体の解がまだない」という社会課題である。シェアハウスは、身近に支え合う人たちとして家族を持たない人たちの新たな共同体のあり方を提案しているように私には思えた。

中世の時代は、簡単にいうと、オラがムラには家族がいて親類がいて、病気になろうが何かあれば助けてくれた。お隣の世帯はいつも一緒で、何かあれば助け合って生きてきた。自らの居場所は、村八分にならない限り、安定して得られた。googleの言う、心理的安全性バッチリの社会である。

ところが、産業革命が起き、農村から一人上京して工場に勤めると、上京したオイラを支える存在はない。結婚して家族ができても核家族。赤ん坊が生まれても、専業主婦ならワンオペ、共働きなら苦労しながら保育園に預けて働くが、子供が風邪をひいたら病児保育を断られ、兄弟がいれば、下の子供が風邪引けば、上の子の世話もままならず、幼い兄弟を家に置いて買い物にも出れないのである(中世であれば、家にはばあさんがいて子供の面倒は見てくれるし、隣のおじいさんがちょっとした留守番はしてくれるだろう)。

また、田舎に置いていかれた両親の方も、高齢化が進む。平均寿命通りじい様の方から死んでくれればまだ良いが、ばあさんが先に亡くなって、料理も作れないじい様が残ると目も当てられない。自らの食事の準備もままならず、宅配で食事をとるが、元気なうちから老人ホームか、やたら高い高サ住に住んで、低質なサービスを受け続けるしかない(中世的社会では、息子の嫁や孫たちがボケたじい様の朝食の世話をしてくれた)。

これに対する解はまだない。

ドラッカーによると、コミュニティと言うのは強制的に付き合わなければいけない共同体で、その定義上、近所の地域コミュニティしかないと言う。日本語で言えば、ムラである。

インターネット上のコミュニティと言うが、あれは正しく言うと志を同じくしたアソシエーションに近いと思う。趣味の集まりはインターネットでも可能だが、それらの集団が近接して暮らさない限り、独居老人やワンオペ育児の問題は解決しない。そこまで支えあえないと、本来的なコミュニティではないし、地域コミュニティ以外のコミュニティと言うのは、ロボットによる遠隔介護などができないと実現が、難しいだろうと思う。

この本にあるちょっと左すぎるシェアハウスに、私個人は住みたいとは思わない。が、昔の地域コミュニティを考えた時、おばあちゃん的な縁側の要素はあるなと思うところがある。

うちの対象生まれの祖母は、良く親類やお坊さんを読んでいて、再従兄弟でもなんでも家に呼んで良く世話をしていた。自らを士族と呼ぶ人たちは、江戸時代の伝統で親戚付き合いが広く深い。お家断絶を防ぐために、親戚から養子を良くもらっていたから、親戚付き合いが必要だったのである。

その居間は良く開かれていて、孫である私は良くそこに遊びに行った。私自身は上京してきたが、祖母の家が東京にあったので、ちっとも寂しくなかった。

と言うわけで、家庭環境に恵まれていた私には色々な支えがあり、逃げ場もあったのだが、そんな人はあまりいないわけで、お互い支えていく存在が必要であり、それは核家族では不十分だし、そもそも単身者にはその核家族さえもない時代だ(そして、人口統計上、単身者世帯は増えている)。

イメージとしては、世代を超えた老人ホームのようなものが必要なのだと思う。このテーマについては、色々考えていきたいと思った。

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