書評:『見えざる革命』(P.F.ドラッカー)

1976年の本である。今頃読んでも面白い。ドラッカーの慧眼である。

まず、ドラッカーは、米国の社会を「年金基金社会主義」と呼ぶ。世の中の財産には生産財とそうでない財がある。生産財とは、利益の出ている企業の株式のようなようなものを指し、お金を生み出す財産である。『金持ち父さん、貧乏父さん』で言う所の財産を指す(一方、後者は、買い切った自宅など、消費してキャッシュを生み出さないものを言う)。米国での生産材の一番のオーナーは誰かというと、年金基金であるというのである。

1976年当時は高齢化社会ではないのだが、ほぼ確実に高齢化社会が来る。であれば、米国型の年金の仕組みが有る限り、年金が企業の実質的なオーナーになるという定量分析が、まずある。年金のオーナーは、確率論的ではあれ、「労働たち」である。つまりは、「労働たち」が米国の企業のオーナーである。資本主義のいう資本家がオーナーではない。

それは、純粋な意味での社会主義が実現されていることを示しているという。日本の現在の社会党、共産党より、理論で言えば社会主義だという。米国企業という生産財の保有者は、資本家という個人ではなく、年金加入者という「労働者たち」という社会である。これが、見えざる革命(我々日本人や米国人は、純粋なる社会主義の中で生きていたのだ!)。

さて、年金基金のお金はどう運用されているかというと、ファンドマネジャーに託されて、様々な企業の株式で運用されている。昔は自社株で運用というバカなことをしている年金もあったようだが(NY市の年金基金とか)、ある時、米国の企業が、ポートフォリオを分散して投資することに変えた。企業の寿命は人より短いので、年金を自社株で運用するのは阿呆である。ポートフォリオを分散して、ダメな企業の株は即売ることが、年金の正義。

年金をかけて運用しているので、当然投資に対するリターンを求める。だから、米国企業は資本効率にうるさい。米国企業は、年金のために働いている。これが、年金基金社会主義。

すでに起きている現実である「年金基金社会主義社会」は、いかなる共産党独裁の自称社会主義国より財の保有に対して公平である。だから、自称社会主義は、公平なる年金基金社会主義に負けたのだという。この時点で、ドラッカーは、労働組合の役割の終わりと、社会主義国の崩壊を予測している。

このテーマだけで、示唆がある。

まず、年金基金が企業のオーナーになるので、その運用をするファンドマネジャーは儲かるということである。20世紀の後半は金融に務める人が大金持ちになった。その理由は、年金基金を抑えたからである。

二つ目は、日本でいうGPIFなどを変えることで、企業の統治が変わるということだ。かかっているものが私たちの年金であるという前提で言えば、上場企業の放漫な経営は許されない。それは、松下幸之助の言う所の犯罪であり、非国民である。一部のオーナーが会社を持っている時とは違う。これが徹底され、年金の下僕である「プロの経営者」が生まれて行ったがの、米国という社会である。この意味では、上場していないオーナー企業は年金のために働いていないので、好きにしていい。

最後に、社会主義と労働組合の終わり。共産党や大統領への権力集中による独裁という意味でのみ、現代の社会主義は名前が残っているが、実質的な意味はない。財産を公共で所有するという意味では、資本主義経済の方が実現されている。つまり、政治における社会党や共産党には存在意義がないということである。また、同様に年金基金を痛めつける労働組合に社会的な意味はない。高齢者社会において、労働者を守りたいのであれば、年金を守る必要がある。

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さて、ドラッカーの話はここで終わらない。法人税の話。

法人税は企業の利益から払われる。そのあとに、配当金が払われる。法人税が高いと、企業のオーナーたる年金基金の取り分は少なくなる。つまり、法人税は、「労働者たちの年金」にとって、懲罰的な税金であるという。

仮に法人税が50%の国があるとして、それが0%になると、年金基金が得るお金は、2倍以上になる。年金が潤うと、年金受給者は、お金がたくさんもらえる。もしくは、労働者の年金負担が半分になる。

年金が足りない高齢者のために生活保護などのお金が政府からたくさん支出されている。これがなくなれば、国庫の負担が軽くなる。税金も安くできる。

だから、企業のオーナーが資本家から「労働者たちの年金基金」に変わった現代において、法人税に意味がないという。「そうだな」と思った。

消費税を高くとって、法人税をなくすことは、社会的弱者である年金受給者を助けることになる。年金受給者は、社会全体で見ると低所得者である。低所得者の所得を上げると、消費が増える。景気回復にも良い影響を与えることになる。私は、気づかなかったが、ドラッカーのこの説は正しいと思う。

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続いて、おじいちゃん、おばあちゃんの定義。

おとぎ話のおじいちゃん、おばあちゃんは、45歳から50歳。ちょっと昔の平均年齢は、50歳程度。55歳が年金支給開始年齢だが、ほとんどの人は、その時には死んでいる。だから、年金受給者は少なかった。

この寿命が、第二次世界大戦後異常に高くなって、80歳を超えている。これが、90歳を超え、100歳になるのがマクロな動向である。これも、普通に生きていると気づかないが、すでに起きていることである。

近年、年金支給年齢が遅くなっているが、「そうなるのかな」と思う。

団塊の世代は70歳でも元気な人が多い。団塊ジュニアの世代は、おそらく60歳では引退できず、70歳ぐらいまで働くのが普通になるんだろうと思う。団塊ジュニアは、同じ会社で働くのかは別として、違う仕事で独立するなり、孫の子育てなり、NPOで働くなり、することになるだろう。

『ライフシフト』なんて本が売れているようだが、それは、ドラッカーが1976年にはすでに書いていることの証明でしかない。

一つの職場で人生終わり、なんてことはなくなる(そもそも大抵の企業の寿命は、人間の労働寿命より短い)。ドラッカーは、別の著書で「一つの仕事を20年もやっていると飽きて、脳みそ死ぬから、他の仕事を探しなさい」と言っている。22歳から80歳まで同じ仕事をしていれば飽きてしまう。肉体を使う伝統工芸の職人ならまだ飽きずにいけるかもしれないが、ホワイトカラーの仕事など、同じ仕事を20年もしていれば、まず、飽きる。この辺りの働き方、就業に対するビジョンを、人口ピラミッドから導いてしまうのも、ドラッカーの慧眼である。

私の説だが、年金をもらうだろう70歳代になった時、人は、NPOなどで働くのではないか。そして、元気な老人たちが、単一の社会問題の解決を使命としたNPOに労働力を投入ことで、社会問題を解決する時代がやってくるように思う。

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さて、生産性の話もここに出てくる。極度に高齢化の進む社会においては、生産性が高い産業にシフトすることが大切だという。つまり、今まで通りダラダラと儲からない商売をしてもしょうがない。高生産性の産業にシフトしないと、年金が回らないという。

実際、米国は、インターネット企業などの高生産性の企業にシフトした。生産性の高いインターネット企業たちは、少ない人数で、膨大な資本を稼ぎ出し、労働者たちの年金を回している。

生産性の低い仕事は、若者の少ない先進国ではできないので、低生産性の国内で回すのではなく、人口の多い発展途上国で回す。そのオーナーは、先進国の年金基金ということで、グローバル経済を描いている。つまり、若年人口の多い、ちょっと前の中国、これからのベトナム、インド、インドネシアあたりで生産を行うようになる。それは、生産性が低いからということになる。

まさにその通りになっている。この本が書かれたのは、1976年である。
(逆行するトランプ大統領は、おそらく米国経済を破壊する)

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日本では、未だベビーブーマー時代、団塊ジュニアによる優秀で豊富で安い労働力を前提した感覚で企業を経営している無能なマネジメントが多い。製造業などに夢を描くのではなく、生産性の高い産業にシフトして、労働力に頼らない情報通信技術の活用をどんどん進めるべきなのである。情報通信技術に理解がなく、貴重な若年労働力を蝕む情報通信技術に理解のない無能なマネジメントこそ、年金基金のオーナーである多くの労働者の共通の敵であり、年金を蝕む非国民である。

今の日本で変えるべきは、労働力の投入先であると確信した一冊である。

私が読んだドラッカーの著書で、(好きな本は別にあるが)最も役に立ったのはこの1冊かもしれない。

ぜひ、選挙の前にご一読いただきたい一冊である。

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