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「どうせ」と「どうせなら」の違い

先日、noteのおすすめにあった記事を読んで、とても考えさせられました。阪神淡路大震災で、被災者に送られた「中古なのに新品よりも人気のある毛布」。
その謎は、送り主が毛布に添えた手紙と、毛布にかけられた手間にありました。

このお話では支援物資である毛布の「どうせ」を「どうせなら」へ変えたものの正体について明かされているわけですが、この二つの言葉の差をつくっている二文字

「なら」とは一体何か?

ということを考えてみます。
接尾語とか活用、ということではなくて、音の持っている「意味」として。

は?

って思われそうですが、ここは言葉スキーのサガということで(笑)


「どうせ」というのは、結果が見えている状況であったり、諦めとか捨て鉢な気持ちとか、自分の力では変えられない状況であることをしぶしぶ受け入れる・・・といった状態を表す言葉ですが、
「音」の意味を拾っていくと
「ど」・・・向こう側に統合する
「う」・・・生まれ出る
「せ」・・・引き受ける
なので、この場合は「相手側に同調することを引き受ける」という様子が読み取れます。

そして、
「な」・・・核・重要な
「ら」・・・場
と続くので、
「どうせなら」は、「相手側に同調することを引き受ける、重要な場」となり、「相手の立ち位置・気持ちに寄りそう」ということを表しているんですね。

「どうせ」も、「どうせなら」も、相手側に結果を委ねているんですが、「どうせなら」の方が、より、相手の立場や気持ちを思いやる行為になっています。

身も心も疲弊しているであろう被災者のことを考え、出来るだけ気持ちよく使ってもらえるようにと三日間日に当てる手間をかけ、手紙を添えて送られた中古の毛布が新品の毛布より人気があったのは、当然のことかもしれません。

被災者の方がなにより欲していたのが、「労わりの気持ち」であったように思います。そして、それを感じて労わりの行動をされたのが、この毛布の送り主であったのかと。

とても、考えさせられる記事だったので、また繰り返し読みに伺おうと思います(*^-^*)



※この「音の意味」の読み解き方は、カタカムナ研究家の吉野信子氏の「思念表」を参考にしています。
「思念読み」とは、吉野信子流カタカムナにおける、「言葉」や「物事の本質」を読み解く方法の一つです。






心に響く記事だったので、また何度も読み返したいと思います。





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