「おむかえ」

お盆どんぴしゃの日に、祖父は仏さんになった。

あの世に旅立つことを「お迎えが来る」なんて表現することがある。
その知らせを聞いて、ある親族は「お盆はお迎えが多いらしいからねぇ」と言った。
三兄弟の真ん中っ子の祖父だが、上と下がそれぞれ逝き祖父はひとりになっていた。
姉と弟が迎えにきたのだろうか。

祖父は若い時に自衛隊員だったが、射撃訓練で耳をやられて辞めて、一般の会社員に転職したらしい。
私の一番古い記憶から、祖父はずっと耳が遠かった。
加えて祖母がとんでもなくおしゃべりだったので、ほかの家族が口を挟む隙間がないほど。
だから祖父が積極的に発言している場面はほぼなかったような記憶がある。
祖父の人生は祖母のおおざっぱな記憶で語られるのみで、どこまで正確なのかはわからないのであった。


大きな思い出が二つある。

一つは、祖父が定年退職後にしていた仕事のこと。小学校の用務員だった。
業者が持ち込み、先生たちが処分したと思われる教材の見本を持ち帰ってきて私たち孫にくれるのだ。これには随分助けられて、なかなか成績が良かった。小学生までは…。

もう一つは、社交ダンス。
小学生の頃、祖父母宅に泊まりに行くと、祖父が夕刻一人で出かけることがあった。ダンスホールに行っている、と祖母は言ったが、そんなにめかし込んでいなかったのでたぶん地域の高齢者のダンスサークルだったのだろう。
中学から高校までは部活が忙しくなって祖父母宅に泊まることはほぼ無くなったが、大学生になって久しぶりに訪れた日があった。

大学生の私は、なんの巡り合わせか社交ダンスをマスターしていたのである。
「じいちゃんルンバ踊れる?」と私が聞いたら、祖父は狭い居間で相手をしてくれた。

社交ダンスは男女が手を繋いだ状態で、男性が腕を押したり引いたりすることで女性に指示を出す。振付パターンの代表的なものがわかっていれば初めて踊る相手でも何となく形になる。
フォークダンスと理屈はそんなに変わらない。
祖父が習得したダンスが、私が覚えたものとほぼ同じものなのだとわかって嬉しかった。
祖父と話が合ったのは、これが最初で最後だったと思う。

祖父に最後に会ったのは、自宅を出て高齢者施設に入居する直前だった。
入居してしまえば面会は簡単にできなくなる。
これが最後になるだろうというのは分かっていた。
孫(私たち)とひ孫で大挙して押しかけ、ずっと変わらない狭い居間でみんなで写真を撮った。
こどもたちのかん高い笑い声が久しぶりに響いた日。

もうそろそろかも、と母が知らせてきてから1週間経っていた。
わかっていたけど何だか寂しくて眠れなくて、そして忘れたくなくて、残しておきたい気持ちになった。

覚えやすい命日にしてくれてありがとじいちゃん。絶対忘れないわ。

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