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咲くや此花



配役
 
小泉佳夕 
(24)作家志望。          
 
松田尚吾 
(27)博文社の編集者。      
 
小泉左京
(50)佳夕の父。御霊。       
 
坂口幸恵
(28)博文社に住む御霊。      
 
松田幸助
(57)博文社の社長。尚吾の父。   
 
飯島良子
(18)克の妹。尚吾の婚約者。    
 
飯島克 
(25)良子の兄。博文社の編集者。  
 
小柄昌平
(30)博文社の社員。後に編集者。  
 
 
 

(一場)佳夕の部屋
 
1912年。明治45年の夏の夕刻。
 佳夕の住む長屋は、下谷の雑多な町並みに紛れ込むように建っている。
 六畳一間と奥に三畳の部屋(舞台では見えていない)。
 箪笥や本棚。床には積み上げられた書籍の山が所狭しと積み上げられ、たださえ狭い部屋を圧迫している。
 上手に書き損じた原稿用紙が散乱する文机。その上にランプ。
 部屋の隅に脱ぎ散らかした着物。さらに汚れた食器やゴミも散乱っている。ここが作家志望の小泉佳夕(23)の部屋。彼女はまだ同人誌に作品が掲載されるだけの存在である。

 幕開け。
 
 西日に照らされたこの部屋を黙々と掃除する男がいる。名前は小泉左京(50)。佳夕の父である。汚れた食器を片付け、脱ぎ散らかした着物をたたみ、書籍の山を部屋の隅に片付けると、彼は箒と塵取りで部屋の床を掃く。

 下手から佳夕が登場。彼女は仕事帰りで疲れた顔をしている。

 夕方でも容赦なく鳴くセミの声が暑苦しい。

 佳夕は溜息をひとつ溢すと立ち止まり汗を拭う。

 遠雷が聞こえる。紺色に染まりつつある空を見上げると、湿気を帯びた風が彼女の顔を撫でた。
 
佳夕 「ふう……」
 
 佳夕は苦しい息を吐きだす。
 
佳夕 「ああ、もうッ。どうしたらいいんだろう」
 
 佳夕は耐えるように唇を噛み締めると、風呂敷包みを胸元で強く抱きしめた。ため息が漏れる。そして、しょぼくれた顔で家の木戸を開けると、黙々と掃除する左京と目がう。

佳夕 「あッ……」

左京 「おかえり」

佳夕 「おとうちゃん、また来てたの? 初盆を迎えたばかりの御霊さん           
が、成仏せずに娘の部屋に入り浸りなんてよくないから」

 左京は部屋を見回して深い溜息。

左京 「いつものことやで驚きはせんけど、この有様は若い女の住む部屋とちゃう。佳夕、早よう、ちゃんと暮らせるようになってんか。何一つマトモにできんのに、東京に出てひとり暮らしなんて、呆れて物も言えへんわ」

佳夕 「いま言ってるじゃん」

左京 「口答えだけは立派やな」

佳夕 「うるさいなぁ。小言は生前に聞き飽きてるから、御霊さんは早くあの世に行ってください」

左京 「おとうちゃんがこの世に居るんは、お前が原因や。お前の生活態度がおとうちゃんの魂をあの世から呼び戻して、お前の涙が、お父ちゃんをこの部屋に閉じ込めたんや」

佳夕 「それはつまり、ここに取り憑いたってことか。うあぁぁキモイ、鬱陶しい。お寺さんに頼んでお払いしないと。南無阿弥陀仏……」

左京 「そんなことせんでも、お前がちゃんとしてくれたら成仏します」

佳夕 「ウザイ……」

左京 「仕事は順調か?」

佳夕 「え?」

左京 「またクビになったりしてへんか」

佳夕 「……(そっぽを向く)」

左京 「おい?」
 
 遠雷が響く。
 そして雨の音。
 落ち込む佳夕。
 
佳夕 「店の皆が怒ってた。だから解雇された」

左京 「今度はどないした?」

佳夕 「言いたくない」

左京 「力になれるかもしれへんから、話してや」

佳夕 「私は言われたことを一生懸命しただけ……」
 
 音楽が流れて、照明が変わる。

 舞台上下から仮面をつけた男女が椅子を持って現れると、ペアで座って談笑を始めたり、一人で座りコーヒー片手に新聞を読み始める(明治時代のカフェのエチュードを始める)。
 佳夕はエプロンをつけて給仕を始める。まずアベックにコーヒーを運ぶが、手がぶれて少し溢してしまう。アベックは怪訝な態度を佳夕に向ける。
 佳夕はそれに対して頭を下げるだけで別の客へコーヒーを運ぶ。
 ところが注文が違ったらしく、その客はコーヒーを指さして『これは違う』と苦情を述べる。
 佳夕はそれをスルーすると、カウンター(実際には見えない)に戻って料理を受け取る。
 アベックの一人が手を打ち鳴らすと、下手から別の女給が出てくる。二人はその女給に、佳夕を指しながら苦情を述べる。
 そのころ、佳夕は受け取った皿を客のテーブルに運んでいたが、
 
客一 「おい、指が入ってるぞ」

佳夕 「あッ……」
 
 佳夕は申し訳なさそうに頭を下げる。
 
女給 「佳夕さん、ちょっと……」

佳夕 「はい」

女給 「今の支給はなんですか。料理に指を入れないようにと、何度も注意したじゃありませんか」

佳夕 「すみません、カレーがお皿に溢れていて」

女給 「また言い訳ですか。それから、コーヒーを溢したのに、あなたは謝りもしなかったそうですね」

佳夕 「あ、頭を下げました」

女給 「言葉で謝罪しなさい」

佳夕 「でも、あなたから先日、私は余計な口を聞くなと言われました」

女給 「それとこれとは違います。あなたはいちいち説明しないと仕事が出来ないんですか」
 
 このとき、客が一斉に立ち上がると佳夕に向く。此花の
 
客一 「なんだあの女給は」

客二 「態度がなってない」

客三 「ホント、失礼しちゃう」

客四 「不愉快だ、帰ろう」

客三 「そうね。(女給に)ねえ、クビにしたら?」
 
 客たちは口々に文句を言いながら、椅子を手にして上下にはける。
 
佳夕 「待ってください。すみませんでした」
 
 去っていく客たちに懸命に頭を下げて佳夕は何度も謝る。
 
女給 昨日の会計を担当してましたよね。また間違ってました。

佳夕 「すみません。私、計算が苦手で……」

女給 「明日から、来なくていいです」

佳夕 「そんな‥‥頑張りますから」

女給 「他の店員からもあなたに対する苦情が出てます。クビです」

佳夕 「(悲しそうに)頑張りますから……」

女給 「もう、結構です」
 
 佳夕がエプロンを外すと、女給がそれを受け取って去っていく。

 照明が元に戻る。

 舞台には佳夕と左京が残っていて、雨音が響きだす。
 
佳夕 「おとうちゃん、私また嫌われた。どうしらいいんだろう。辞めさせられた仕事は編集さんに紹介してもらったのに、顔向けができないよ」

左京 「編集さんて、博文社の松田さんちゅう人やったか」

佳夕 「うん。私に同人誌を紹介してくれた人。それに自社の文芸誌に私の小説を掲載するために動いてくれてるんだ。今の仕事は小説が売れるまでの繋ぎにと、松田さんが……」

左京 「そうか」

佳夕 「雨が降ってきたね」

左京 「夕立や。夏が終わりかけているから、こんな調子で毎日一雨くる。少しず変わっていくんが季節や。お前も少しずつでも変わってくれたら安心できるんやけどな」

佳夕 「私はヘンだから変われない。おとうちゃんだって私がヘンだと思ってるんでしょう?」

左京 「ヘンやない。ただ不器用なだけや」
 
 佳夕は文机のランプに明かりを燈すと、散らかった原稿を片付ける。そしてその原稿の続きを書きだす。
 
左京 「なにしんねん?」

佳夕 「小説書いてる」
 
 筆を懸命に走らせる佳夕。
 
佳夕 「悔しいや哀しいを原稿に叩きつけてる。タタでさえ女性に厳しい世の中なのに、私みたいな人間にはそれ以上の生き辛さが溢れてる」

左京 「おまえの考えすぎや」

佳夕 「『甘えるな』って、私を嘲けて蚊帳の外に追いやるんだ。理解なんてしてくれない。おとうちゃんだって、そうだ」
 
左京 「今日はやめとけ」

佳夕 「嫌だ。小説は私のすべてなの」

左京 「落ち着かんか」

佳夕 「ああ、もう。うるさい。あ、そうだ!」
 
 佳夕、筆を置く。
 
佳夕 「おなかが減った」
左京 「いつものことやけど、話題が急に変わりよるな」

佳夕 「松田さんが晩御飯を差し入れに来てくれるころだ。松田さん、自分で作って持ってきてくれるんだよ」

左京 「松田さんって、お前のなんや?」

佳夕 「だから原稿の担当者」

左京 「原稿の担当者って食事まで世話をするんか」

佳夕 「ときどき、この部屋を掃除してくれてる」

左京 「掃除して、ご飯を用意して、仕事を世話してって。それ担当者じゃのうて、お前の恋人ちゃうんか?」

佳夕 「博文社の担当だよ。恋人じゃないから」

左京 「おとうちゃんは文芸の世界は理解できんけど、そこまでするもんやろか。狙われてるんちゃうか。まさか、泊まっていったりしてへんやろな」

佳夕 「この前泊まった」

左京 「はあああ?」

佳夕 「原稿の直しを待っていてくれて、遅くなったから泊まってもらった。でも、それだけだから。お父ちゃんが心配するようなことはないよ」

左京 「嫁入り前の娘がはしたない。おとうちゃんは許さんで!」

佳夕 「大袈裟」

左京 「わかった、その松田を呪い殺したる」

佳夕 「馬鹿なことを言わないで。お世話になってるんだから、おとうちゃんからもお礼を言ってほしいぐらいだよ」

左京 「言ってたまるか!」
 
 このとき、ガラガラと木戸が開き、表の湿気た冷たい風が部屋に流れ込む。土間に松田尚吾(27)が入ってくる。彼は傘をさしていたが、肩が雨に濡れている。
 
松田 「遅くなりました。いやぁ、すごい雨ですね。小雨だったら走ってこようかと思いましたが、この雨だったから途中で傘を買いまして」

佳夕 「(クスっと笑い)濡れ鼠ですね。お上がりください」
 
 佳夕は手拭を松田に渡す。
 
松田 「ありがとう」

佳夕 「こちらそこ、いつもありがとうございます」
 
 松田は土間に傘を立てかけると、上がり框に荷物を置いて、濡れた体を拭く。
 
松田 「その包みは晩御飯です。大したものは入ってませんが、よいナスが手に入ったので焼きナスに。口に合えばいいのですか」

佳夕 「(包みを開けて)お弁当ですか。(蓋を取り)美味しそう。うれしいです。ありがとうございます」

松田 「(上がって)これ、洗い物ですね」

 と、床に重ねて置いてある食器を手に取る。

左京 「待てやオマエ。松田とか言うたな。なにうちの娘に手を出そうとしてるんや」
 
 左京の罵倒は松田には聞こえなので、彼は知らん顔で放置された食器を持って台所に行く。
 佳夕は幸せそうに、松田の後ろ姿を眺めている。
 
左京 「なに幸せそうな顔してんのや」
 
 佳夕は左京に向かってサムズアップ。そして立てた親指をひっくり返して地面をさす。地獄に落ちろの意。
 
左京 「親に向かって、なんやその態度は」
 
 松田は戻ってくると、カバンから原稿を取り出す。
 
左京 「お預かりした原稿ですが」

佳夕 「『咲くや此花』ですか」

松田 「はい」

佳夕 「またダメですか?」

松田 「今回こそ掲載に持ち込みたかったんですが。その……残念ながら見送りになりました。でも、本当にいい作品です。それは編集長も仰ってました。ですから、僕は諦めてません」

佳夕 「いま新作を書いてます。それじゃダメですか」

松田 「ぜひ読ませてください。でも、この小説には人生に苦しむ人の叫びがある。あなた自身と言っていい。これを書籍にできないのは、まだ機が熟していないからです。和歌の『咲や此花』と同じで、佳夕さんはまだ冬ごもりをしている最中です。でも、やがて春が来る。まもなくです。僕はそう信じてる。まず、これで結果を出しましょう」

佳夕 「(松田の熱に押されて)は、はい」

左京 「騙されたらあかん。お前にそんな才能はない」

佳夕 「頑張ります」

左京 「目ぇ覚ませ」

佳夕 「目ぇ覚ますんは、おとうちゃんの方。黙ってて!」

左京 「は、はい!」

松田 「はい……?」
 
 思わず口から出た言葉に、佳夕は目を白黒させる。
 
佳夕 「ごめんなさい。おとうちゃんのことを思い出して、つい変な言葉が飛び出しました。うわぁああ、恥ずかしい」

松田 「はあ……(面白そうに笑うが、ひとつ咳払いをして)。たしか、今年の春にお亡くなりになったんでしたね」

佳夕 「はい」

松田 「(やはり笑い)おとうさんが存命中もそんな言葉を?」

佳夕 「いいえ……はい……」

松田 「威勢がいいなぁ」

佳夕 「い、言わないでください。恥ずかしい。でも、いつも注意ばかりされてました。もっとうまく生きなさいって。腹がたって言い返してばかりでしたが、その通りだと自覚してました」

松田 「そうでしたか」
 
 佳夕、松田から原稿を受け取る。それをジッと見つめる。
 
佳夕 「(ポツリと)私、生きづらいです。どうしたらいいのかわからない」

松田 「大丈夫です。誰だってそう感じてます。感じる部分は違うと思いますが、僕だって同じように生きづらい。完璧な人なんていません。あなたも僕も、欠けた部分を持つ同じ人間です」

佳夕 「ほ、ホントに」

松田 「はい」

佳夕 「あ、そうだ」
 
 佳夕は下がって居住まいを正し、頭をさげる。
 
佳夕 「せっかく紹介していただいた仕事をクビになりました。ごめんなさい」

松田 「あらら。それじゃ次をさがしますね」

佳夕 「でも……」

松田 「気にしないで。きっと職場が合わなかっただけです」

佳夕 「‥‥」

松田 「ん?」
 
 松田をじっと見つめていた佳夕は、何かを口ごもりながら恥ずかしそうに俯く。
 
佳夕 「‥‥なぁ」

松田 「なにか言いました?」

佳夕 「優しいなぁって、そう思って」

松田 「そんな……普通ですよ」

佳夕 「私、松田さんに会えてよかった」
 
 佳夕、鼻を啜り目頭を手で押さえる。
 
佳夕 「あれ? いけない。恥ずかしい」
 
 佳夕は泣き出す。
 
松田 「佳夕さん……」
 
 その様子を見ていた左京は、
 
左京 「娘を泣かせよったな。絶対に呪ったる。きっちりたこ焼きの型にハメたる」
 
 音楽と供に溶暗。
 
 
 
(二場)佳夕の部屋
 
 
 一週間後。時刻は正午過ぎ。相変わらずのセミの声。
 部屋はそれなりに片付いている。
 佳夕は文机に向かって小説の執筆中。
 左京、自ら料理した『水焼き(文字焼き・もんじゃ焼き)』を乗せて登場。佳夕のすぐ後ろに座ると『水焼き』を乗せた盆を手前に置く。
 
左京 「おとうちゃんな、いま下町で流行ってる『水焼き』ゆうヤツ作ってみたんや。小麦粉に蜜まぜて溶いた生地に野菜も入れたで」

佳夕 「‥‥」

左京 「この家から出られヘンのに、よく作れたと思わんか? じつはな、近所のガキどもが作り方を話してるの、聞き耳立てて覚えたんや。とりあえず食べてんか」

佳夕 「うるさい」

左京 「昨日の夜から何も食べてないやんか。体壊すで」

佳夕 「いまいいところだから黙ってて」
 
 と、筆を走らせる佳夕。
 
左京 「おまえなぁ……」
 
 ふと見ると、木戸の隙間から女が覗いて左京は驚く。女の名前は坂口幸恵(28)。彼女も御霊である。
 
左京 「どちらさん?」

幸恵 「ひッ!」
 
 幸恵、木戸を閉めて逃げていく。
 
左京 「いまの、間違いなく御霊さんや。何の用やろ?」
 
 下手から飯島克(25)が出てくる。飯島は松田と同じ出版社の後輩だ。その後ろから、飯島良子(18)が現れる。良子は袴姿の女学生。
 
良子 「兄さん、やはり私は会いません。どんな顔をして会えばいいのかわかりませんから」

飯島 「松田さんに女の影がちらついてから、溜息ばかりついているじゃないか。お前は婚約者だから堂々としていればいいとは思うが」

良子 「まだ仮の、です」

松田 「昨日親父から、正式に二人の婚約を進めると聞いたぞ」

良子 「それは、そうですが……(顔が曇る)」

飯島 「そんな顔するぐらいなら、会ってすっきりさせろ」

良子 「‥‥」

飯島 「いいかい。あの女は、松田さんを利用しているんだ」

良子 「え? それはどういう……」

飯島 「売れない作家が編集者に取り入るなんてことは、この業界にはよくあることなんだ。だから、この辺りでガツンと言ってやるべきだ」

良子 「松田さんは利用されるような人かしら? 私たちは幼い頃から松田さんを知ってます。とてもそんな方だとは思えません」

飯島 「変わった女だそうだ」

良子 「え……?」

飯島 「松田さんは仕事一筋だから、そういう女に免疫が……いや、よそう。で、どうするんだ」

良子 「いいえ、会いません」

飯島 「蟠りを抱えたままでいいのか」

良子 「佳夕さんって人の気持ちもわからないのに、いきなり私が婚約者ですと名乗り出てどうするんです」

飯島 「松田さんは頼れないんだと、わからせてやればいいんだよ」

良子 「誠実な方だったら? 兄さんは偏見が先に立ってませんか?」

飯島 「なら僕が会ってどんな女か確かめてやる。どのみち執筆の進捗状況を確かめなきゃいけないんだ。お前はここで聞いていろ」
 
 飯島、玄関を開ける。
 
飯島 「こんにちは。博文社の飯島と申します。佳夕さん?」

佳夕 「‥‥」

飯島 「あの、佳夕さんですよね。僕は博文社の……」

佳夕 「‥‥」

飯島 「か、佳夕さん? 原稿の進行を確認しに来ました。上がってもよろしいでしょうか」

左京 「どうぞ」

飯島 「失礼します」
 
 飯島は左京の存在にまったく気づかず、脇を通り抜けて佳夕の後ろに座ると、辺りを見回す。
 
飯島 「汚い部屋……」

左京 「大きなお世話や。これでも綺麗になったんやで」

飯島 「(置かれた皿を見て)なんだ、これ?」

左京 「水焼きや。見てわからんか」

飯島 「これ、文字焼き? 鉄板の上じゃなきゃ美味しくないだろう」

左京 「え、そうなん?」

飯島 「(佳夕に向き直り)佳夕さん、あなたがいま直しを入れているその原稿、十月に刊行する新しい文芸誌に掲載が決まりました」
 
 佳夕、弾かれたように振りかえる。
 
佳夕 「え? ええ! どうしてですか」

飯島 「どうしてか、ですか」

佳夕 「と言うか、あなたは誰です。いつのまにここに?」

飯島 「何度も声をかけましたが返事がないので上がりました。僕は博文社の飯島で、松田さんの後輩です。原稿の進行状況を覗いに参りました。再来月の掲載になりますので、来月の十日が締め切りです」

佳夕 「大丈夫です。頑張ります。やったー!」
 
 佳夕は松田の手を取りぶんぶんと振り回したあと、小躍りしながら部屋中を駆け回る。
 
左京 「こら、落ちつかんかい」

飯島 「すべて松田さんのおかげです」

佳夕 「松田さん、すごーい」

飯島 「それで、評判がよければ次の作品を連載会議にかける予定になってます。それで取りあえず、僕が佳夕さんの担当になりました」

佳夕 「え? なんで?」

飯島 「理由については本人から聞いてください」

佳夕 「そんなのイヤです。絶対ダメですかか

飯島 「と言われましてもね」

佳夕 「松田さんはわたしません」

飯島 「はあ? ヘンな人ですね。編集者が代るなんて、普通にあることじゃないですか」

佳夕 「お断りします」

飯島 「(大仰な溜息)松田さんは僕の妹の婚約者で、来年の春には結婚する予定です。あなたにかまっている暇はないんですよ」

佳夕 「嘘です……」

飯島 「松田さんが博文社の社長の次男というのはご存知ですよね」

佳夕 「え、知りませんでした」

飯島 「(呆れて)……僕の実家は毎朝新聞社です。博文社は毎朝社の子会社だから、妹と結婚することで博文社は大きくなれる。松田さんも毎朝社の社長の娘婿として出世が出来ます。そういう理由で、担当を外れることになりました」

佳夕 「そんな……」

飯島 「あなたに文才があるのは認めますが、これからは松田さんとかかわるのをやめてください。まさか松田さんの妻になるつもりですか。ありえないから、とっとと諦めて……」
 
 佳夕は布団を待ちだすと、それに包まって蹲る。
 
佳夕 「聞きたくないッ」

飯島 「なんなんだ、この人?」
 
 良子が入ってくる。
 
良子 「兄さん、もうやめて」

飯島 「なあ良子。この人は作家としてのチャンスを掴んだんだ。それ以上を望むのは、贅沢じゃないのか。言い方はきつかったかもしれないが、こういう人は、ちゃんと言わなきゃわからないんだよ」

良子 「‥‥」

飯島 「帰ります。原稿、よろしくお願いしますよ」
 
 飯島、振り返りもせず出て行く。
 
良子 「ごめんなさい」
 
 良子、一礼して出て行く。
 左京、布団越しに佳夕の背中をポンポンと叩く。
 
左京 「大丈夫か? せやけど酷い言い方しよるな。」

佳夕 「大丈夫だから」
 
 視線を感じた左京が振り返ると、幸恵がまた覗いている。
 
左京 「あの、どちらの御霊さんで?」

幸恵 「ひゃぁ。バレてる?」

左京 「そりゃわかります。なんぞ用ですか」

幸恵 「用事があるわけじゃないんですが。どんな人なんだろうなって興味がわきまして、つい」

左京 「よかったら、入ってか」

幸恵 「え? 簡単に入れてくれるんですね」

左京 「悪い御霊さんとちゃいますやろ。見ればわかります」

幸恵 「ええ、まあ」
 
 幸恵、おずおずと部屋に上がって座る。
 
幸恵 「私、博文社を根城にして浮遊霊をやってます坂口幸恵といいます」

左京 「浮遊霊ですか。なるほど。わてと違い色んなところへ出かけられるわけや」

幸恵 「はい。お宅様は自縛霊でしょうか」

左京 「そうです」

幸恵 「それはご不便ですね」

左京 「娘が心配で化けて出た結果ここに自縛されてしまいました。そやけど、娘が幸せになれば、執着がなくなってあの世に行ける予定です。まあ、娘は今、あんな調子やけど」

幸恵 「心中お察しします」

左京 「それで、どないな用事でここに?」

幸恵 「うーん。これ言っていいのか悪いのか。私は、佳夕さんがどんな人か一目見たくてきただけなので、顔だけ拝んで帰るつもりでした。ですが、飯島さんが現れてあんな酷いことを……うん、お話します」
 
 幸恵、ぐっと身を乗り出す。
 
幸恵 「生前博文社の社員をしてましたが、私は会社で過労死しました。いやー、私の人生、仕事以外何もなかったって、死んでから気がつきました。ですから今は、自由気ままに浮遊を続けて楽しんでます。で、三日前のことなんですか、縁日に出かけようと、いつものように社長室を通り抜けて表に出るつもりでした。なぜ社長室を通るかと言うと、表に出るのに便利だからなのですが、壁をすり抜けて社長室に入ると、社長と松田さんが言い争いをしてる最中でした」

左京 「それで‥‥」

幸恵 「あのぉ、佳夕さんに、私の声聞こえてるでしょうか?」

左京 「いいえ、わての声しか」

幸恵 「よかった。今からする話を佳夕さんに聞かれるのは憚れますから」

左京 「重たい話なんですか?」

幸恵 「たぶん」

左京 「続けてください。伝えなあかんことやったら、わてから話します」

幸恵 「では……話の内容は、こんな感じでした」
 
 照明がかわり音楽が入ると、舞台の上下から松田と博文社の社長・松田幸助(57)が椅子を持って現れる。二人は舞台の前面に対面して座る。(二人のいる場所は別空間。つまり社長室)
 幸助は足を組み松田を睨んでいる。
 
松田 「その話ならお断りします」

幸助 「ダメだ。縁談は両家の話し合いで決まったことだ。お前は良子さんと結婚しなさいかつあ

松田 「僕の気持ちは無視ですか」

幸助 「これは会社のためだ。お前だけの問題じゃない」

松田 「会社の道具にされるなら、ここを辞めて家を出ます」

幸助 「バカらしい。相手は華族のご令嬢だ。この婚姻がうまくいけば会社が繁栄し、社員とその家族がどれだけ助かるか考えろ」

松田 「社長、いえお父さん。理屈はわかりますが、それは後付の理由です。いつも一代で会社を大きくしたと豪語してたじゃありませんか。だったら、家族を犠牲にせず最後まで一人で戦ってください」

松田 「今まで不自由なく暮らせたのは誰のおかげだ。相手の良子さんはその辺をちゃんと理解して、この婚姻を快く承諾したぞ」

松田 「結婚して毎朝新聞に行けば、佳夕さんの面倒をみれなくなります。だから、お断りします」

幸助 「有名な作家の弟子でもない物書きが、どうやって文壇に出て行く。よしんば出れたとしても、すぐ潰れるだけだ」

松田 「僕は編集者です。そうならないように導きます」

幸助 「いい加減、諦めろ」

松田 「僕が諦めたら意味がない。それは出来ません」

幸助 「あの女のどこがそんなにいい?」

松田 「生きづらさを抱えてた脆い女性だと思います。それでも彼女は諦めず、真っ直ぐ目標に向かうその姿に心を動かされました。彼女の夢が叶うとき、僕は彼女の隣にいたいんだ」
 
 幸助はしばらく腕を組んで思案するが、
 
幸助 「だったら、十月に刊行する新しい文芸誌に彼女の作品をねじ込んでやる。無名の作家が有名どころの作家と肩を並べることが出来るんだ。これほどのことはないだろう。そのかわり、これ以上、あの女にかかわるな」

松田 「‥‥」

幸助 「いち編集者のお前には出来ないことだ。この条件が飲めないなら、うちの社から彼女が文壇に出る術はない」
 
 松田は悔しそうに顔をゆがめる。
 
幸助 「傍にいるだけがお前の出来ることじゃないハズだ。尚吾、編集者なら作家の将来を潰すな」
 
 佳夕はいつの間にか、布団から顔を出して話に聞き入っている。
 
左京 「それで、松田さんはなんと答えたんや」

幸恵 「松田さんはしばらく逡巡して、いえ、かなり考え込んだあと、苦悶の表情で頷きました」
 
 松田は『わかりました』と苦々しい表情で頷く。
 二人は立ち上がると椅子を手にして舞台の上下に去る。
 佳夕、布団を跳ね除ける。
 
佳夕 「松田さん、松田さん」
 
 佳夕は大慌てで木戸から飛び出す。
 
幸恵 聞こえないはずじゃなかったんですか。うわわわ」

左京 「待たんかい」
 
 佳夕を追いかけようと左京は木戸を潜るが、何かに弾かれて玄関の土間まで飛ばされる。
 
左京 「あかん、出られへん」

幸恵 「私が追いかけます」
 
 幸恵、木戸を出て佳夕を追う。

 音楽盛り上がり、溶暗。
 
 
 
(三場)博文社
 
 
 本郷弓町、壱岐坂近くに建つ博文社のロビー。
 舞台背景は中割か紗幕など、簡易的なもので代用可。中央上下に椅子二脚を体面に置く。雰囲気作りで背の高い観葉植物があれば用意する。

 下手から、佳夕が駆け込んでくる。
 
佳夕 「すみません、すみません。編集の松田さんにお会いしたいのですが。取次ぎをお願いします」
 
 対応に博文社の社員、小柄昌平(30)が出てくる。
 
小柄 「松田さんですか?」

佳夕 「そうです」

小柄 「どちら様でしょう?」

佳夕 「小泉佳夕と申します。松田さんは私の担当なんです」

小柄 「ああ……(と意地の悪そうな笑顔を張り付け)会えませんよ。と言うか、ここにはいませんね」

佳夕 「それじゃどこに?」

小柄 「彼はここを辞めて毎朝新聞に移るから、たぶん、そちらじゃないですかね。あなたの担当は飯島君がやると聞いてますが。彼なら戻ってますよ。呼んできましょうか」
 
上手から、良子が現れる。
 
良子 「お相手は私が致します。仕事にお戻りください」

小柄 「いいんですか?」

良子 「はい」

小柄 「それは助かります」
 
 小柄は戻っていく。
 良子、上手の椅子に座る。
 
良子 「お座りください」
 
 言われて、佳夕も座る。
 
 飛び込んでくる幸恵。ぜいぜいと息を切らしている。
 佳夕は幸恵に気づき振り返るが、すぐ前を向く。
 
佳夕 「あの、松田さんは?」

良子 「ここにはいません」
佳夕 「そうですか」

良子 「一度、あなたと話をしなければと思ってました」

佳夕 「あの、どちら様でしょう」

良子 「佳夕さんのご自宅で今日お会いしたのですが、あの時あなたは布団を被っていて、私を見ていないのですね。飯島良子と申します。松田さんの婚約者です」

佳夕 「え、そうなんですか。あなたが婚約者……」

良子 「先ほどは兄が失礼な言い方をしました。お詫び申し上げます。でも、兄は私のことを思ってあんな話をしたのです」

佳夕 「‥‥」

良子 「私たちは政略結婚ですが、松田さんとは幼馴染みで昔からお慕いしていました。できればこのまま、結婚したいと考えています」

佳夕 「私は離れ……」

良子 「でも、松田さんは会社や家柄に頼ることなく、自分で何かをなしたい人だから、私との結婚を本当は望んでないでしょう」

佳夕 「そうなんですか?」

良子 「それくらいわかります、幼馴染みですから。それを踏まえて、あなたの気持ちを聞かせてください。なぜ、松田さんなのでしょう? あなたにとって都合がいい人だからですか」

佳夕 「都合……そうかもしれません。私は子供の頃からなにをしても不器用で、計算や片付けることが苦手で、人の言った言葉の裏というのがわからず、言葉どおりに動いたり、すぐ思ったことを口にして嫌な思いをさせてしまいます。頑張って直そうとしてますが、なかなかうまくいきません」

良子 「失礼ですが、そんな人がよく文章を……」

佳夕 「小説の中だけが私の自由な場所なんです。それを松田さんは応援してくれました」
 
幸恵は舞台の端に見守っていたが、我慢できずに佳夕に駆け寄る。
 
幸恵 「佳夕さん、もう帰りましょう。この人は毎朝社の社長令嬢なんだよ。じつは私、松田さんのことをお慕いしてたんだけど‥‥松田さんを忘れるために仕事に打ち込んで、それで体を壊して……」

佳夕 「‥‥」

幸恵 「思い詰めると私みたいになっちゃうから」
 
 佳夕は幸恵の言葉に目を閉じる。
 
佳夕 「ある人から聞いたんです。ここの社員だった人が、松田さんの大切な言葉を私に届けてくれました」
 
 佳夕は目を開けて、良子と向き合う。
 
佳夕 「私の夢が叶うとき、松田さんは隣にいたいと言ってくれました。私は同じ夢を見てくれる人を、離したくありません」
 
 その言葉に良子は思わず立ち上がる。
 
良子 「はあ~、そうですか」

佳夕 「はい」
 
 良子は納得したように頷くと、優しい微笑を佳夕に向ける。
 幸恵は唇を噛み締めて俯いている。

 音楽盛り上がり、溶暗。
 
 
 
(四場)佳夕の部屋
 
 
 床に散乱していた書籍の山を、佳夕が眉間に皺を寄せながら、唸り声を上げて本棚にしまっている。
 隣で腕を組みその姿を左京が監視している。本の整理整頓はすぐに行き詰まり、佳夕は泣きそうな声で左京に助けを求める。
 
佳夕 「ううう、私にはムリ。どうやったらいいのかわからない」

左京 「ただ隙間に本を詰めるだけや。なんで、そんなことが出来んのや」

佳夕 「だって頭の中がまっ白で、なにも思いつかなくなるんや」

左京 「隙間に入れるのが出来ないなら、せめて本棚を買い足せ」

佳夕 「おとうちゃんが買ってきて」

左京 「わてはここから出られません。と言うか、御霊が買い物してどないするんや」

佳夕 「不便やな御霊は。役に立たないなら、早くあの世とやらに帰って」

左京 「ぬかせ、このアホンダラ」
 
 小柄がカバンを下げてやってくる。
 
小柄 「失礼します。新しい担当の小柄です」

佳夕 「どうぞ」

左京 「なんや、また担当がちゃうやんか」
 
 小柄は一礼すると、部屋に上がり下手に座る。
 
小柄 「佳夕先生の小説が掲載された書籍が刷り上りました」
 
 小柄はカバンから本を取り出すと、佳夕に差し出す。
 佳夕はそれを受け取る。
 
佳夕 「担当が代わったんですね」

小柄 「飯島君はわが社に出向してただけなので、先月、毎朝新聞社に戻られました」

佳夕 「はあ……そうでしたか」

小柄 「同じ文芸誌に翻訳作品を載せてくださった小金井喜美子先生が、佳夕先生の小説を絶賛されました。他の先生方もです。それに、この前いただいた次の作品も無事に連載会議を通りました。つまり、連載決定です」

佳夕 「ありがとうございます」

小柄 「それでは、これで失礼します」
 
 小柄、一礼して帰っていく。
 
左京 「よかったな。そやけど驚いたで。おまえが先生か、やりよったな」

佳夕 「うん……」
 
 入れ代わりに、幸恵がやってくる。
 
幸恵 「お邪魔します」

左京 「どないしはりました?」

幸恵 「今日は左京さんに用事があって覗いました」

左京 「わてに?」

幸恵 「確信が持てましたので、左京さんの今後についてお話が」

左京 「ん? 意味が分かりませんが」

幸恵 「いいから。私と一緒に来てください」

左京 「?」

幸恵 「おっと、忘れてた」
 
 木戸外に向かって指を刺すと幸恵は意味ありげに微笑む。そして「さあ」と左京を促して奥の部屋に入っていく。
 二人がいなくなると、松田が玄関から入ってくる。
 
松田 「こんにちは」

佳夕 「ま、松田さん?」

松田 「ようやく作品が形になったね。それに連載おめでとう「

佳夕 「松田さんの御かげです。私だけの力じゃない。私一人ではできなかった。すべてあなたが助けてくれたから」

松田 「いや、君が努力した結果が出たんだ。誇っていい」

佳夕 「ありがとうございます。でも、私の担当を外れたんですよね。そして結婚されるんですよね」

松田 「担当は外れたけど、結婚はしない」

佳夕 「えっ! どうして?」

松田 「正式に縁談を断ろうと良子さんの屋敷に出向いたら、こちらが口火を切る前に、彼女からか婚約を断ってきた。なんでも、僕たちには付け入る隙がないんだとか」

佳夕 「あの人がそんなことを」

松田 「でも会社は辞めた。僕はね、フリーの編集者になるつもりだ」

佳夕 「フリーって?」

松田 「会社に縛られず自由に企画を発案して動き回る編集者のことさ。外国では当たり前にいるらしいが、この日本にはまだいない。だから、その一番になるつもりだ」

佳夕 「はあ……なんだかよくわからないけど、凄い」

松田 「それじゃ今日は帰るよ。実家を出るから新しい住まいを探さなきゃならないんだ。また来ます」
 
 と、立ち上がった松田の上着を佳夕が掴む。
 
松田 「ええと、帰れないんだけど」

佳夕 「離さない」

松田 「でも、今日中に住むところを」

佳夕 「そんなことが聞きたいわけじゃないんです」

松田 「困ったなあ。じゃぁ帰らないから手を離して」
 
 佳夕が手を離すと、松田はあらためて座りなおす。
 
松田 「ええと、それで……」

 佳夕は俯いたまま。

松田 「それじゃ僕から(咳払いをして)一緒に暮らしませんか?」

佳夕 「へ? それって、どういう……」

松田 「フリーの編集者になるのは簡単なことじゃありません。困難も辛いこともあるでしょう。でもそれに挑戦しようと思ったのは、生きることに向き合う佳夕さんを見てきたおかげです。あなたから勇気を貰い、チャレンジする決心がついたんだ。ですから、これから先、出来れは、僕の傍にいてくれませんか」

佳夕 「ええと……」

松田 「佳夕さん……?

佳夕 「頭がついていきません」

松田 「つまり、求婚してるのですが」

佳夕 「え、求婚。プロポーズ?」

松田 「まあ、一応」

佳夕 「うわわわわわわわわ」

 
 佳夕は耳まで真っ赤になり、両手で顔を覆うと、ひっくりかえって足をバタバタする。
 
佳夕 「何も出来ない私と結婚したら後悔します」

松田 「僕にも出来ないことはたくさんありますから、大丈夫です」
 
 そこに白装束に着替えた左京と幸恵が戻ってく。
 
左京 「佳夕、おとうちゃんな、もう逝くから」

佳夕 「そうなんだ」

左京 「軽いなァ……」
佳夕 「おとうちゃん、私、け、結婚する」

左京 「聞いてた。けど、ホンマに大丈夫なんか。人の奥さんになるなんて、お前に出来るとは信じられへん。そやけど、お前が幸せなら、おとうちゃんの居場所はあらへん。だから、今日でお別れや」

幸恵 「私も左京さんについていくことにしました。短い間でしたが、これでお別れ申します」

佳夕 「幸恵さん、おとうちゃんをお願いします」

幸恵 「はい。佳夕さん、幸せにね」

佳夕 「はい」
 
 佳夕、左京と幸恵にあらためて向き合う。
 
佳夕 「信じられないかもしれないけど、ここに私のおとうちゃんと元博文社の幸恵さんの御霊さんがおられます」

松田 「え、ええ! 幸恵さんって、昨年亡くなった? どうして佳夕さんが幸恵さんのことを?」

佳夕 「おとうちゃんは私を心配して化けで出てきました。幸恵さんは私を心配して助けてくれたました。でも二人とも、今日で成仏するそうです」

松田 「ほ、ホントに?」

佳夕 「はい」
 
 佳夕、頭を下げる。
 
佳夕 「おとうちゃん。私が家を出て東京に来たのは、生きようと思ったから。小説は私の大切なものだけど、それがすべてじゃかったんだ。咲くや此花なんだ。私は春を見つけた。わたしの隣に、温かい人が来てくれたよ。だから心配しないで。私はちゃんと生きていけるから……これ持って行って。私の小説、まだ読んだことないでしょう?」
 
 佳夕は花が咲いたような笑顔で小説を左京に手渡す。
 
佳夕 「いつまでも、応援してください」

 音楽入る。
 
左京 「ああ(涙声)……」

幸恵 「ほら、子離れ」

左京 「わかっとる。松田さん、娘をお頼み申します」
 
 左京は頭を下げる。
 何も見えない松田に佳夕が耳打ち。
 『はい』と松田が返事をすると、左京と幸恵は家を出て行く。

 二人は見送るように木戸口を見ているが、どちらからともなく手を握り合う。その温かさが、生きていける証明だと言わんばかりの、二人の笑顔を残して。
 
        幕。
 

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