6月29日

「〇〇〇〇だからこれやっといて」
「…はい」
余裕がない時ほど、〇〇としか聞こえてない。
人の話が入っていない。とりあえず話を合わせようとする。
自分のことばかり、呆れられる、人が離れていく

自分でもなぜこうなっているのか分からない。聞いているはずなのに、関心をむけているはずなのに話が入っていない。
「理解しようとして聞いてないからだよ」
「関心がないんでしょ」
「もうやめちゃえば?」
「さようなら」

なぜそんな言葉を使うの?

現実、社会は相手のことを理解するよりも、潤滑にことがすすむことを優先する。エラーしていること、エラーしている人に関心を向けるよりも、”次”

なんて大きな主語を使い始めている私は恐らく体調が悪いし頭も悪い。
自分のことを、全く理解していない。もう一度自分に戻る。

相手の話が入っていないのは、関心がないから、かもしれないけど、一番は、「疲れている」これだ。
頭の中が何かで埋まっている。空虚な中身がない、ものかもしれないが、埋まっているのだ。
今の自分は身体がボロボロ。疲労困憊で、肉体的にも精神的にも決壊寸前のところをどうにかしているのだ。

それと、相手に与える印象や態度、結果は別になっている。なぜなら、相手はそんな僕の状態を知らない。
ヘラヘラ笑って、サボっているようにしか見えないのかもしれない。分からない。僕は今、被害妄想中だ。

疲労困憊。疲労困憊、ではまずい。そもそも、自分で疲労困憊から脱するように対処せんと。どうしたら疲労を溜め込まずに行動していけるか、困憊なのだから、溜まっているのだから、現時点でし続けている行動や思考、それらの運動を停止、もしくは削るこ。何かを増やすのではない。腰が痛いからと言って、湿布を貼る。そしてまた働く。これでは対処療法。湿布を貼ってもいいが、休息しないと。

仕事を開始して数時間。涙が出てきた。彼女が頭の中に浮かぶ。出会ったとき笑顔で話し合った、不満があればお互い言おう、って言葉と共に、ふられたあの日の場面が脳内で反芻される。自分に何ができた。俺が悪いんだと思いながら被害者面して自分を慰める。相手のことを悪いと思えない。嫌いになれない。仕方がなかった、と落とし込めない。何かできたはずなんだ、と反省という過去に自分を閉じ籠める。閉じこもっていたい。そこから出たくない。わかってはいる。自分のため、相手のためには次にすすむことが必要で、心の中で幸せを願うくらいがいいんだ、ということは分かっているが、分かっていることに僕は争ってしまう。そんな道を歩みたくない。心のままに従いたい。それが思いだからだ。相手の幸せを願う、なんだそれ、傲慢だ。余裕があるものの言い分だ。僕は余裕がない。ずっとない。しんどい。だからこのままだ。このまま。このままを記す。それが日記だ。
決意を記すのではない。今のありのままを記す。記し続ける。今の自分はこうなのだ。僕は今日を過ごす。

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