8月16日

午前9時に栄へ。トリエンナーレのバイト。四日目ではあるが、多少飽きてきている。ただ、それは同じフロアに居続けているからであって、まだ他の階の展示作品をじっくりと見れてはいない。後何日バイトをする事になっているか数えると、今日を合わせ残り三日間。そこで今日は昼飯を抜いて、昼休憩の間に見て回る事にした。
8階と10階がメイン会場。10階は以前軽く見て回ったので、8階に行く。入口すぐのケイトクーパーの作品がすごくよかった。今僕が自分の体に感じている感覚を、映像から感じた。キャプションには、「映像が何を表象するかではなく、映像が視覚的なソマティック・エクスペリエンス(身体感覚に着目したトラウマ療法)として何をもたらすか興味を抱いている」と書かれていて、これは自分の作りたい作品に大きく関わっている気がした。
作品自体はかなりシンプルで、X線画像のような身体の断片が、くっきりと像を結んだり、ぼやけたりする動きを繰り返し、効果音との融合で、身体的な「アフェクト(情動)」が生み出されている。
イメージが固定されず、動き続けることで生まれる歪み。
「イメージが身体の代役になりつつ、新しいコピーとしての体が動き続け、固定化されず、それ自身を盗用し、演じ続けるという意味の遊戯が好き」
他の作品も印象深いものはいくつかあったけれど、これが一番かも。
動き続けることで、こうしたい、こうでありたいなんていう理想を描く時間すら無くしてく。どんどん理想を塗り替える。自己像を塗り替える。止まらない。止まる時は自然と止まる。その練習もしてきている。休憩も流れの一部。動きの一部という認識。
作品の大枠は頭の中で固まってきた。
昼休憩を終えバイトに戻る。いつも通りバイトをしていると、体が動けと言い出した。早歩きで会場内をぐるぐると歩き回った。その姿を池田さんに笑われる。僕はなぜ早歩きしているのか考えた。すると、この動き方は、先日行った養老天明反転地で遊んだ時の動きだと気がついた。さらに、この早歩きを始める直前、僕は大人たちの作品を鑑賞する態度がほとんど同じであることに違和感を覚えていた。
子供の動きで会場内の作品を見渡すと、さっきまで平面的だった作品が、立体的に見え、その事を池田さんに話すと、急に目の色が変わり、僕の話を興味深く聞いてくれた。
「今かなり重要なこと話してるんじゃない?」
子供は世界に左右されるというより、どんな場所でも遊戯性を発揮することができる。それがいつの日か、なくなってしまう。
「どんな子でも絵を描くことが出来るのに、いつからか急に、絵が描けなくなる子がいるの。その逆に、描ける子っていうのはね、ずっと描き続けている子なのよ」
僕と池田さんは、大きく頷き合った。
僕もこれが重要な気がする。でも今はよくわからない。だから一応ここに書いておくことにする。
バイトを終え、ドトールで日記を書く。昨日のこともあり、家に帰るのを遅らせた。帰宅すると、母と姉は寝ていた。夕飯にヨーグルトを食べ、シャワーを浴びて布団に入る。

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