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不安なときは未来のことを考えている時。未来のことを考えている時は今が充実していないとき。充実していない今は携帯の画面を見つめている。
それ以外の時間は仕事をしている。
昔っからある衝動。それをしてみたい。その衝動に身を任せてみたい。だけど怖い。もう二度と普通の生活に戻れない気がする。それを生業にできる気もしない。全部気がするだけ。気の渦の中を彷徨う。
僕は写真を撮る、映像を撮る。撮る、残す、という行為が好き。何のためかは分からない。分からないが、そこに幼少期に読んだ絵本と同じ要素を感じる。
こんなこと考える人が周りにいるはずもない。だから強烈な孤独感がある。だから普通になろうとした。したけど、その普通の世界があまりにも退屈過ぎた。普通に生きたいはずなのに。

普通ってなんだ。この前泊まった放出のゲストハウスの85歳のオーナーに「やりたいなら今すぐやらな」と言われた。77歳になったときふと思い立ち、始めたというゲストハウス運営。やりたいなら今すぐやる。
逆に考えてみる。今やっていることは何か。今やっていることはやりたいことではないのか。
こうして文章を打つこと。電車に乗り家に帰ること。やりたいことだろうか。
新しい景色に出会うと興奮する。同時に落ち込むこともある。例えば、今から帰る家に、母の再婚相手です。と言い住み始める男がいたらどうだ。途端に居心地が悪くなる。
居心地がいいから家に帰っている。それが当たり前。それ以外の行動はあり得ないから家に帰る。
だけど、栄によってクラブへ行くこともいいはずだ。なんなら一人暮らしをとっくの昔にしていてもいいはずだ。そっちの方が楽しそうな気がする。なのに家に帰る毎日だった。ルールのように、当たり前のように、そうだからそうしていた。でも、そうだからは、そうではない。

同じ毎日なんて存在しない。毎日違う時間が流れている。でもそう感じる。
駅のホームで携帯を見つめる人の横を風が通り過ぎる。電車の音の残りカスを巻き込んで遠くへと向かう。
姉は全く風呂に入らなくなった。静かに何事もなく崩壊していく。崩壊なんて無いかのように、一つ一つ積み上げる。止まることは決してない。

立ち止まるとはカフェで一服することではなく、こうして一文字一文字書き綴ることだった。
いま思い出した。言葉を綴る理由を。初めはそれを日記と読んだ。もう何でもいい。何でもいい、続ければ良い。

目が使えなくなっている。焦点が合わない。見たいものだけを見ることしかできない。いつの間にか自分の顔すらも忘れていた。生まれた時の顔、数年前の顔、笑った時の顔、怒った時の顔。大切な人の顔までも。声がするのはあなたが呼ぶから。痛いさけぶから。誰かの名前を呟くから。決して私が見つけたのでもなく、気にかけたわけでも無い。ただ、あなたが呼んだから。心臓に血液を運んでいる様にしか見えない、この車両に乗る人々。目だけではなく、耳も使えなくなっている。ただ電車の音が聞こえているはずなのに、この状態を沈黙、とすら呼べる気がする。人の表情が見えない。そもそも口元が見えない。何も見えない。
聞こえるのはあなたが呼んだから。あなたの顔が見えるから。微笑みながらシワだらけの、曲がった関節が幾つもある冷たい手で、僕の手を包み込んでくれるから。暖かい手、と言ってくれる祖母の手を僕はみつけた。またここに戻ってきた。

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