8月15日

父方の祖父母の家に遊びに行く。その家に住んでいる、いとこが、稲沢まで迎えに来てくれた。

祖父母の家に到着して早々、いとこと、祖父が大げんかをし始める。従兄弟は車内で、楽に死ねるにはどうしたらいいのかという話題を振ったり、人の、特に祖父の愚痴を頻繁にこぼしており、心の負荷がかかった状態で生活を送ってきたようだ。
初めてみる、祖父と、従兄弟の喧嘩。殴り合い寸前までいったので流石に止めに入る。
家族、親戚という強い間柄だからこそ、他人のように接することが出来ない。しかし、家族だろうと、親戚だろうと、他人なのだ。そこに中々辿り着けず悩み、苦しむ人が多い。そして、死にたくなる人も多い。
他人という事を自覚する。と同時に、家族であるという事実が在る。
うまく行く家族は、大体、一定の距離感があるのだ。各々が自主的に行なっていることがある。他人をコントロールしようとしない。他人に構っている時間があれば、自分のしたいことをする。そんな距離感がある。
この距離感を築くのが苦手なのが、親だろう。親が子に距離感を近く感じすぎることがある。操作したくなる。かまいたくなる。それにより、子が親離れしづらくなる。でも、子は、この体は悲鳴をあげる。我慢ができなくなる。で、鬱になる。
僕は最近まで子供だった。内なる子供がいる。その子供は、小学生の女の子と、男の子、2人いることがわかった。その子供を、大人である僕がしっかり距離を置いた。完全に他人だとした。すると、彼らの動きが面白いと感じるようになり、その動きを適切な距離感で観察することが出来る様になった。観察し、彼らの動きを今では大人な自分が模倣している。それが心地いい。心は大人へ向かい、動きは子供へ向かう。それは、世界に対する解像度を上げる事に繋がる。気がする。気がするだけ。
へーそうなんだ。こうして打ち込んでいて、知った。自分の中に子供が2人いたんだ。不思議な横断をしている。今の自分は名古屋の地下サンロードのドトールで作業をしている自分。さっきまでの自分は無意識の自分か?なんだこの日記。日記なのかこれ。あ、今ってことは今は8月16日の21時33分で、この日記は8月15日のものだから、昨日の自分がさっきまでの文章を書いていたのか?意味わからんくなってきたので、日記に戻ろう。
家族関係による、悩み。
従兄弟と祖父の喧嘩を宥めた後、祖母と2人で話し合った。その時、祖母の過去、幼少期のことを聞いた。幸田文みたいな家族構成で、だから、今の祖母があるのかと、様々な事に合点がいった。
夜、祖母が作ってくれたトマ辛ハヤシが美味しかった。食後、従兄弟に家まで送ってもらう。その車内でも、どうやったら死ねるのかという話題を持ち出してくる。なので、逆に生きている事を強烈に感じたエピソードを話した。とある宗教の本殿に入り、信者の人たちとお経を唱えた話。そのエピソードにビビる従兄弟。これが生きるってことじゃと、生き方の幅を頑張って伝えてみた。すると、俺も侵入してくるわと、真意とは異なる解釈をし始める従兄弟。ま、生きてりゃなんでもいいさと別れを告げる。
帰宅。
母が泣く。母は、父と、その親戚全てを憎んでいる。母は未だ、過去の時間の中を強く生きている。
僕は、憎しみの中では辛いだけだというしかなできない。態度で示すしかない。泣く母を1人にし、僕は布団に入った。

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