デリケートな話

差別はよくないことだと
みんなが言う。

その割にはみんな
差別し合う現実もある。

差別ってゆうと
敏感に反応する人が多いけど、


アメリカに来て
特に学校に行き始めてからは
差別を目の当たりにする日々の連続だ。

差別とゆうよりも
贔屓
とか
特別扱い
とか
そっちのほうが
言葉としてはマッチするのもしれないけど、
贔屓されてない方からしてみれば、
差別を受けてることになる。

差別されたからと言って
いちいちむんつけたりしないし、
気にしててもしょうがないから
ムシするが、
気分は良くない。

そんな気持ちが抑えきれなくなったり、
そんな気持ちの人が束になると
ややこしい。

たとえば
わたしたちの担任の先生も人間だから
生徒たちとの相性に
合う合わないがある。
可愛がりたいと思える子と
そうじゃない子。

面白いのは、
贔屓される子が
俗に言うところのマイノリティ。
贔屓されない子は白人。
同じく贔屓されてないワタシは
アジア人、
一応マイノリティだが
欧米では
アジア人を見下している人も
少なくはない。
担任の先生がそうだと
言いたいわけではないが、
絶対そうではない、
と断言することもできない。

ちなみに:
先生は白人である。


抗議デモこそ起こらないが、
贔屓されないチーム: 白人&アジア人 の
うっぷんは募る。
学校に通うのもあと1ヶ月ちょい。
爆発せずに終えたい。

10人とゆう小さいクラスの中で
なくならないと言われる
人種差別の原因を垣間見るのは
なかなか興味深いのも事実。


白人が黒人に無礼なことをすると
問題になるが、
その逆のことが起こっても
お咎めなしなことは多いのは
unfair や double standard が
苦手なワタシにとっては
苦痛でもある。

歴史的背景や
昨今の社会情勢も絡むせいで
非常にセンシティブな話題であるが、
同一民族の国で生まれ育ったワタシには
新鮮、
とゆうのが正しいかわからんが、
これまで目にしてきた
様々な人種差別の話題を
振り返るにあたり、
クラスで目の当たりにする
小さな贔屓と差別の往来は
ある意味 
Aha! モーメントである。


贔屓されたいと願っているのではなく、
求めているのは
透明性のある公平性だ。