将来の夢と過去の自分


やっていた習い事から将来の夢を語る同級生がいた。
サッカーをやっているからサッカー選手とか、野球をやっているから野球選手とか。
そんな周りの子たちを見て、適当に言っていた。
本当に目指している子たちを見て、本気なんだあと思っていたし、
そんなサッカーとか野球にのめり込めるのいいなとも思っていた。

周りがどこか幼く見えて、でも幼く見えたのはきっと、周りの子たちが何不自由なく生きているのがとても楽そうに見えたからだと思う。

自分はこんな思いをしているのに、周りとは違う。
みんなは帰る家があって、習い事を応援してくれる家族がいるのに、自分は違う。

純粋に好きとか、悲しいとか、これがやりたいとか言えるような環境じゃなかったのだから、将来何になりたいとか考える以前の問題だった。

普通の家庭が欲しい。家が綺麗で、毎食バランスのいい食事がでて、朝起きれなかったらお母さんが起こしてきたり、新聞よむお父さんに向かっていってきますを言ったり、その日あったことを家族みんなで食べる夕食のときに話してみたり

そういった家庭がずっとほしかった。

両親はいたし、経済的にも不安定な訳じゃなかった。
何が足りていないとかじゃないはずなのに、何かが常に足りていなくて、周りと違っていた。

そんな、目に見えないものに対してコンプレックスを抱いていた小学生時代は心が荒れに荒れていた。

いじめも盗みもした。

悪いことをしているという感覚はほぼなかった。

欲しいから盗る。みんなは自分にもっていないものを持っているんだからちょっとくらいいいじゃない。
あなたは家に帰ったら温かい家庭があるんでしょ、だったら学校で少しくらい辛いコトがあっても問題ないでしょ。
私のことを見てくれる人はいないし、こんなことをしてもあなたたちが持っているものは絶対手に入らないんだから。

そんな気持ちだった。
別にいじめの対象なんてだれでもよかった。
いじめている自分がひどく幼く見えた。
それでも、胸に抱えているストレスを発散できる快感を覚えてしまったのだから、あとは自己防衛に走るだけだった。

変わったのは、中学の時から。

悪いことで集まる友情は、脆いものであること。
いじめをする理由は、その裏にストレスと承認欲求が隠れていること。
自分が相手のことを嫌わなければ、相手からも嫌われることはないこと。
勝手に嫌ってきたら、それはひがみか妬みだからそっとしておけばいいこと。

そういったことを小学校時代に学んだのだ。
いじめを摘発されて教師から注意され、
親から注意され、

指導される中で少しずつ学んでいった。
根っからの内向的な性格も幸いして、自分を客観的にみる術を見つけた。

それでも、根底にある強い承認欲求は中高時代の自分では抱えきれないときがあった。

周りの子たちがなぜそんなにも、落ち着いているのか分からなかった。
同じような承認欲求を持っている人を見たら同族嫌悪で胸に黒い物を抱いた。

そんな過去を私は持っているのだ。
今は違う。

1人暮らしの大学生活を経て、自分のやりたいことを思いっきりした。
心の赴くままに生きた。

強かった承認欲求は、やりたいと思っていた気持ちに蓋をして、素の自分を奥の方へ押しやっていたからだと分かった。

どうしたらよかったのかは今でも分からないけど、私は今将来の夢へと着実に進んでいると思う。

夢見た将来像は、自分がどうなりたいに加えて、自分の周りにどういった環境があるかも大事で、

漫画やアニメに出てくるような、思わぬ才能が発覚して大逆転とか超有名に、とかそんな感じの夢じゃなくて

おしゃれなインテリアに囲まれて、素敵な旦那さんとかけがいのない一日を過ごすこと。

これが、今の私の夢であり、目標だと思う。

その為に、自分を磨いて、周りを磨いて、少しずつハードルを越えていくこと。一日の選択を振り返ることが大事なのだろう。



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