人は自分の信じたいものしか信じない。

私の好きな人は口癖のように言っていた。
人は自分の信じたいように物事を解釈し、信じられる形で真実を受け取る。
それはどうしようもないことであり、やっぱりどうでもいいことでもある。嘯く口は「恋焦がれたように」煙草を咥えた。

「恋焦がれたこともないくせに」
「どうせ感情も感覚も他人と共感することはできない。同じ体験は同じ経験を意味せず、だからこそ同じ言葉は異なる感情を示す。恋焦がれたことがあってもなくても、人は『恋焦がれ』ている。そうやって本人が信じれば」

私の嫌いな人はいつだって素敵だ。
私はこの人と同じ人間ではないのだと、そう信じることが出来る。
それは確かに正しいことであり、やっぱりどうでもいいことでもある。
ライターはどこにいっただろうか。

「使い捨てのライターに同情する人はいない」
「人は自身の意識を感じている。それはやっぱりどうしようもないほどに」
「他人の意識を感じることは出来ない。だから、人は他人に意識を投影してそこにあるのだと信じる」
「自分の意識と同じようなものがそこにあるのだと、他人を理解する」
「その行為は結局、ライターに意識を感じて情を抱くことと、どの程度異なるのだろうか」

私は確かに存在していると私は信じていて、好きな人も確かにそこにいるのだと私は理解している。
私は確かに意識を持っていて、好きな人も同じように意識を持っている。
私の身体は意識を作り出し、しっかりと機能している。
五感を捉える神経の数瞬の誤差を調整し、ひとつのリアルを捉える意識は休まず物語を編み続ける。それもやっぱり当然のことだと、私は信じている。
はて、煙草は灰皿に埋まってしまった。

「意識は何のためにあるのだろうか」
「意識はいつ発生するのだろうか」
「意識は、どうしてここまで信じられるのだろうか」

私の好きな人は、私の意識が好きな人だと言えるのだろうか。
それもやっぱり、どうでもいいことなのだと私は嘯いている。

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