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名前も知らない、彼との話

世界の輪郭が闇に溶けて見えにくい時間は
生活を忘れることが許されるような気がする。
深夜という時間帯はそんなふうに
人をたくさん甘やかして、可愛がって、

そして時折、牙を剥く。

今日の深夜は、カエシのついた刃を容赦なく私に突き立てた。
抜こうとすればするほど、傷口は広がって透明な血がじわっとあふれでる。

無理矢理引っ張ってみる。
あえてちょっと押してみる。
うーん、うまくいかないね。

少しの間それと向き合ったけれど
なにかがちぎれた音がしたので、
もう足掻くのをやめた。

気がついたら外には雨が降っていた。

雨音が連れた孤独にもたれて、世界を見ないフリをした。
あの日、誰かがくれた優しさに溺れて、馬鹿で愚かなフリをした。

そうして辿り着いた自由と想像の世界は誰も拒まなかった。

こうなりたいが叶う世界、こうありたいが実る世界。

誰も傷つかない、誰も置いていかない、調和と安寧の地面に寝そべって晴れることのない空を見る。

曇りガラスに似た帳が天から少しずつ降りてきていた。

もしこのガラスの帳が降りきってしまったら
私は元の世界に戻れないのだろうか。
戻れなくても、
ずっとこのまま、
このまま死ぬまで何も変わらないこの世界で眠ったように生きても、別に悪くないんじゃないか。

自由と想像は、私を拒まない。
元の世界に戻ったとして、あの刃を抜く体力も気力もどこにも残っていないだろう。

ガラスの帳はもうこの世界の半分を覆っていた。

ガラスの帳が降り切るまであと半分の時間
ここで寝そべっているだけで、
もう苦しい思いをしなくてもいいのなら
もうつらい思いをしなくてもいいのなら
私はここで、自由と想像の世界で……。

そう決心して瞼をゆっくりと閉じた。

ところがその瞬間「こんにちは」と頭上で声がして、驚いて勢いよく体を起こした。

目の前には、40代くらいの特にこれといった特徴のない普通の男性。これは偏見だが、なんとなく変態っぽい。

「こんにちは。」
掠れた声でおそるおそる挨拶を返すと、
「すみません迷子になっちゃったみたいなんです。」
と男は恥ずかしそうに困り顔で笑った。

「えっと、ここはどこかな?」
「自由と想像の世界です。」
「えっ?嘘、合ってるな。でもおかしい…」

なにやらごにょごにょと、口籠もりながら男は辺りを見回す。
不安そうな表情を浮かべて、うーんと頭を悩ませているが、帳のタイムリミットもある。
あまりゆっくり考えている時間もないはずだ。

「……大丈夫ですか?」
「本当に、自由とソウゾウの世界だよね?」
「ええ。フリーの自由と、イメージの想像の世界です。」
「あ!違う!僕の目的地は自由と"創る" 創造!自由と"創造"の世界に行きたかったんだ。」

想像と創造。
確かに、音だけでは区別がつかない。
男が戸惑うのも無理はないなと合点した。

「なるほど…それは…紛らわしいですね(笑)どんなところなんですか?そっちの"創造"は。」
「ほんとクソみたいなことばっかで、絶望するよ(笑)」

男は、呆れたような笑みを浮かべた。
私は、男が「絶望」なんて重い言葉をさらっと口に出したことに驚いてすぐに二の句が告げないでいた。
だってまるで、絶望しないことを諦めているみたいだ。


「そうなんですね。大変そう。」
「でも、最高に楽しいよ。絶望の中にも光はある。悲劇が喜劇を連れてくることもある。」
「へえ。」
「君もさ、一緒においでよ。」

男は、くしゃっと少年のように笑ってこちらに手を差し伸べた。
何を言ってるんだろう。
出会って間もない無気力な人間に声をかけて、「クソみたいなことばっか」の世界に連れて行こうとしているなんて。やっぱりこの人、変態なんだろうな。

「おいでよ、一緒に冒険しよう。」
「……私は絶望したくないんです。自分に期待もしないし、周囲に自分を期待させない、それが1番楽で1番自由だ。」
「でも、僕は君の中にある希望たちを呆れたままにさせたくない。」
「え?」
「希望が呆れたまま、死ぬのだけじゃあんまりじゃない?」
「何言ってるんですか?」
「なんでもいいさ。一緒に行こう、地獄へ。」

そう言って、男は私の手を引いた。
触れた男の手は、とても熱かった。
命を溶かしてしまいそうなほど、熱かった。

燃えているのか、燃やしているのか、
それとも誰かに燃やされないように抗っているのか。

指先の皮膚が硬くなっている掌を伝って、
彼の鼓動が聞こえてきそうだ。

「そういえば、道わかってるんですか?自由と創造の世界への行き方。」
「分からない!でも無いなら創り出そうぜ!」

その時、彼の手はさらに熱を帯びた。
こっちまで溶けてしまいそうになるほどのその熱は
とうとう私のなかにまで入り込んで、
心の奥底に仕舞い込んだちっぽけな石に光を与えた。

その石は、小さな星となって私の心を照らして
堕落した希望に命を吹き込んでいく。
すると、待ってましたと言わんばかりの希望たちが
マイペースに火を灯し始めた。

次第に、小さな火種たちがまとまって大きな炎になっていく。しかし、どんどん光が大きくなるということは、つられて影も大きくなるということ。
希望と絶望は常に隣り合わせだ。

それに気がついてしまった瞬間、
高揚と恐怖が同時に私を蝕んだ。
もう、この男の手を離してしまいたかった。
やっぱり私は想像だけでいい、もう、怖い。

「見て、上。」
「……帳が。」

ガラスの帳が、消えていた。
晴れることないはずの空、雲の切れ間から一筋の光が差し込んで辺りを照らした。
足元の芝生が光を目指して伸び始め、景色が豊かになっていく。

「なんだ、ここ、創造の世界だったんだね。」
「え?」
「よかったよかった。ありがとう、つれてきてくれて。」
「まって、私はここでひとりでは無理です。私のこの星だってあなたがいないと光らない。」
「大丈夫。君のはもともと光ってたんだ。ちょっと弱まっていただけ。」
「じ、じゃあまた弱まったらどうしたらいいんですか、誰が燃やしてくれるんですか。こんな地獄で、絶望だらけの場所で、ひとりで。」
「……地獄でなぜ悪いの?」
「わるい…でしょ。」
「影があれば光は絶対にある。それを見つけて紡いでいけるひとが僕は素敵だなと思う。苦しいし大変だけど、僕も頑張るから一緒に頑張ろうよ。……じゃあ、僕はそろそろ行くね。」
「まって、最後にひとつだけ。どうして、私の想像の世界にいたの?」
「Nise is Real.」
「なんて?」
「秘密。だけどね、出会いは未来だよ。次会う時は笑顔で会おう。」

男はそう言って、ゆっくりと歩きだした。
私は何も言えないまま、彼の背中を小さくなるまで見つめていた。


雨音が聞こえた。
窓の外はほんのり明るい。
世界の輪郭が少しずつはっきりしていき、
人々が生活を思い出して、忙しなく動き始める時間が近い。

心に刺さった刃はいつのまにかなくなっていた。
多分あの時の熱で溶けてしまったんだと思う。

雨はもう孤独を連れてこない。
なんとなくだけれど、
彼が一緒に雨音で歌ってくれるような気がするから。

名前も知らない、私の心の、星の源になった彼が。




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