「野生の研究者」について考えた(1)

先日、こんな講演会を企画したので、忘れないうちに振り返ってみたい。

リンク:誰もが研究する時代の到来 〜これからの未来をつくる「野生の研究者」の生態に迫る〜

ちなみに、この振り返りは、話題提供してもらった湯村さんの講演内容を忠実に解説するものでも、会場で議論された内容をまとめたものでもない。僕が、講演会当日の議論内容に加えて、講演会の開催前から考えていたことも自分の中でかき混ぜて、いま考えていること・感じていることをまとめたものなので、その点ご了承いただければ幸いである。

(参考)当日の湯村さんの講演内容はこちら(研究会のまとめページ)、当日の議論の内容(の一部)はこちら(Togetterまとめ)。


振り返りの主なテーマは、講演のキーワードになっている「野生の研究者」についてだが、これに関しては、ニコニコ学会の発起人・江渡さんが本に書いている

"もともと研究者とは、職業というよりも生き方であり、常に探究心を忘れずにいる人を意味する言葉であるはずだ。そこで、プロ・アマという区分を無視し、生き方としての研究者を選んでいる人を「野生の研究者」と呼ぶことにした"(ニコニコ学会βを研究してみた,p.9)

をベースとして、そこに自分の考えを積み重ねる形で進めてみたい。

湯村さんの講演で、「野生の研究者と既存の知識体系との距離感」に関する話題が出た。例えば、「知識体系における自分の研究成果の位置づけが曖昧になる」「知識体系に組み込むために必要な信頼性の担保をどうするか」などである。

ちなみに、アカデミアでは、前者は「論文の引用・被引用による可視化」、後者は「論文公開前の査読で検証、さらに公開された論文の内容を他の研究者が検証して、時間をかけて知識体系に組み込まれていく」というプロセスを踏むが、既存の研究機関に属さない野生の研究者がこの流れに乗るのは意外と難しい。

この話題に関して僕が感じたのは、(湯村さんの問題提起とは裏腹に)、「野生の研究者って、自分の生み出した知識を、既存の知識体系に組み込むことに、そんなに興味がないのではないか」ということである。

では何に興味があるのかという話になるが、僕の考えでは、

「新しい発見をしたり新しい何かを作ったその瞬間の『自分の中での興奮』を最も大事にしていて、その興奮を他の人にも伝えたい人」

が野生の研究者なのではと思っている。

僕としては、後半部分の「その興奮を他の人にも伝えたい」すら不要と思っているが、湯村さんを見ていると「人に伝える」をとても大事にしている気がするので、ここではこういう定義にしておく。

以前、仲良くしていた大学院生が「いま、自分の目の前に、この世界で自分しか気づいていない何かがある。その状況がゾクゾクするんですよ」と話してくれたことがある。

僕は、その言葉がずっと心に残っていた。

研究者が良く言う「査読が通った」とか「自分の研究成果が社会の役に立つ」とか「多くの論文に引用される」とか、もちろん大事で嬉しいことなんだろうけど、何か良い人ぶってるというか、ある種の邪な気持ちが入ってるように僕には見える。少なくとも、本能的に生まれる気持ちではないよなと思う。

講演が終わった後のディスカッションで、参加者の1人が「研究成果を神社に奉納すればよい」と冗談っぽく言った。実際、日本には自分が解いた数式を絵馬に書いて奉納するという風習があった(リンク:和算ナビ・算学とは)。この神への奉納は、自分の中にわき上がった興奮に素直になるのと似ているなと僕は思った。

「野生の研究者とは、自分が生み出した知識を将来に残すことよりも、自分が知識を生み出したときの『興奮』に価値を見いだす人である」

これが、僕の中での「野生の研究者」の定義としての結論である。

ここから、「野生の研究者と既存の知識体系の距離感」について話を進めたいのだが、長くなってきたので別の記事に分割することにする。

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