見出し画像

坂本 龍馬への旅~世界を洗濯いたし申し候~

龍馬への旅の始まりに・・・       

 江戸時代末期、"薩長同盟(1866年)"、"大政奉還(1867年)"を実現させ、日本をひとつにし、外国の脅威から国を守った、日本を代表する歴史上のヒーロー・坂本龍馬。

 僕が龍馬ファンになったきっかけは、『お〜い竜馬』という漫画です。喧嘩をしていた薩摩藩(今の鹿児島)と長州藩(今の山口県)を仲良くさせる時に、頭をつかって、米と武器を交換させることで仲直りをさせた。そのアイディア(発想力)と粘り強い交渉力で、バラバラだった日本をひとつにまとめ上げた。現代の日本の礎をつくった歴史的偉人だ。

 米中間に挟まれた現代の小国日本。今のこの日本にもこんな人物が必要ではないだろうか。

坂本龍馬への旅① 神奈川編〜近代の幕開け編〜

・「黒船来航」日本の近代の幕開け浦賀ではなく、久里浜だった!

 1853年、7月8日、それまで平穏だった江戸時代の三浦半島に突如現れた巨大な4隻の黒船。瞬く間に日本中に激震が広まり、大事件となった。これこそアメリカのペリーの来航だ。ペリーが幕府に開国を迫ったことで(中国との貿易の中継地点として日本の開国は重要だった。)、それまでの封建主義が崩れ、欧米の近代文明が一気に押し寄せることとなる。しかし、そのペリーの黒船は浦賀に来航したと言われているが、本当は隣りにある久里浜だったのだ。その証拠にペリーにまつわる記念碑も記念館もここにある。実は浦賀には停泊していただけでペリーが上陸し、アメリカの大統領の親書を幕府に差し出したのはここ久里浜だったのだ。なぜ浦浜の名ばかり有名になったのか…。

画像3

坂本龍馬への旅② 江戸(東京)編〜龍馬の青春〜

・「龍馬が世界と出会い、人生を変えた場所」〜品川の浜川砲台〜

 ペリーの4隻の黒船はその巨大さを見せつけるかのように、一週間かけてゆっくりと江戸湾を進んだ。                     当時龍馬は偶然にも江戸で剣術修行中だったので、出身地、土佐の命でこの品川で黒船の警備に加わっていた。その時父に宛てた手紙に、「異国船処処来たり候へば、軍も近き内と存じ奉り候、その節は異国の首を打ち取り…」としるしている。まだ19歳だった龍馬の黒船に対する驚きと血気盛んさがあらわれている。この衝撃があったからこそ、その後の日本をひとつにする思いが生まれたのかもしれない。

・勝海舟邸跡〜人生のターニングポイント〜

 1862年10月、龍馬が27歳のとき、千葉重太郎と一緒に勝海舟を斬るために、赤坂にある勝邸に乗り込んだ。当時は鎖国派だった龍馬にとって開国派の勝は許せなかった。しかし、勝を斬るはずだったのにその場で龍馬は勝に弟子入りしてしてしまった。
 当時のほとんどの若者は攘夷派という外国を倒すという考え方で龍馬もそのうちの一人だった。しかし、勝に会うことで考え方が180度変わった。それは、開国派という西洋の真似をして日本を強い近代国家にしようという考え方だ。
 これで本当の龍馬が誕生した。

坂本龍馬への旅③ 高知編〜龍馬への試練〜

・「誕生から脱藩」

 一介の浪人だった龍馬が日本全国を飛び回り、幕末の世の中を変えた。薩摩藩や長州藩という大藩と対等に渡り合い、龍馬が描いたシナリオ通りに事が運んでいく。龍馬自身が語ったように、まさに日本を選択してしまったのだ。
 坂本龍馬のこの何も恐れない行動は一体どうやって育まれたのだろうか?三つ子の魂百までというが龍馬が生まれてから28歳で脱藩するまで過ごした土佐に秘密が隠されているのだろう。生まれ育ち、愛した土佐での足跡をたどり、龍馬のともに土佐を歩いてみよう。

・坂本龍馬記念館(下の写真)

画像1

 龍馬が青年時代から大切にしてた愛刀や、高杉晋作からもらったピストルなどを所蔵しており、龍馬が殺された京都の近江屋の部屋まで実寸で復元されている。中でも、筆まめだった龍馬の手紙は貴重だ。薩摩と長州の同盟を成功させた際の桂小五郎の手紙の裏書きまである。

・桂浜

画像4

 坂本龍馬記念館を一歩外に出ると雄大な太平洋へ続く桂浜、そして、それを見つめる巨大な龍馬像。桂浜を見ると水平線が丸みを帯びていて、地球が丸いことがよくわかる。

・龍馬が龍馬になった時

 尊王・倒幕・攘夷と叫ばれた時代に、又、アメリカに行ったこともないのに、なぜ龍馬は西洋の凄さを理解し、日本をひとつにしようと考えたのだろうか。

①甘やかされていた龍馬が12歳頃から継母が“やられたらやり返せ“としつけなおしながら、親戚の廻船屋で当時は珍しかった地球儀や、望遠鏡に触れさせた。
②19歳頃、江戸で黒船見て土佐に帰ってきた龍馬は外国のことに精通したインテリ画家河田小龍に出会い、優れた西洋の文明について学ぶ。
③27歳頃、まだ脱藩の踏切のつかなかった龍馬は長州久坂玄瑞に出会う。5歳も年下ながら日本の未来を正確にイメージしていた久坂に感銘を受ける。

 以上この3つの点、継母の教育、インテリ小龍との出会い、そして、久坂との出会いが28歳の龍馬の頭と身体の中で結びつき、一本の線となり、人生の目標が明確に定まる。そして、龍馬は脱藩を決意する。
 こうして僕たちが歴史上で知る坂本龍馬が生まれる。これが龍馬の「誕生から脱藩」までの秘密だ。

坂本龍馬への旅④ 京都編〜日本を選択いたし申し候〜

・土佐藩邸跡

 土佐の役人が泊まっていた場所。龍馬の親戚で土佐勤王党のリーダー武市半平太もここにいた。

・寺田屋

 龍馬の常宿。妻のお龍もお世話になっていた。龍馬が幕府の役人に襲われた。お龍が危険を知らせてくれたので、龍馬は命が助かったといわれている。

・酢屋

 龍馬が暗殺された3日前まで隠れていたお店。日本で最初のカンパニー・海援隊の本拠地。ここで船中八策や大政奉還の案を中岡と練っていた。酢屋とかいてあるが、今も昔も材木屋だ。

・近江屋跡

 龍馬と中岡が一緒に暗殺されたところ。犯人は京都見廻組といわれている。
 その日は、1867年11月15日の夜。それは、元号が明治になる二か月前のこと。新しく洗濯した日本の夜明けを龍馬は見ることがなかった。

画像5

(龍馬と中岡の墓↑)

まとめ 龍馬からのメッセージ

 坂本龍馬という男はなぜ、これほどまでに魅力的なのだろうか。自由奔放にして豪快、土佐藩(今の高知県)という一地方に生まれ、郷士という低い身分にありながら、薩摩や長州という雄藩と互角に渡り合い(1866年、薩長同盟)、最終的には、幕府や朝廷を巻き込んで「大政奉還(1867年)」を実現させてしまった。そんな政治的な人かと思えば、武器商人としても会社・亀山社中(日本で最初のカンパニー)をつくり、欧米人と対等に交渉し、経済的な側面からも日本中で大暴れした。

 龍馬は姉に宛てた手紙に、“日本を今一度洗濯いたし申し候“と記した。正に、日本中を掻き回して、龍馬が理想とするグローバルな日本国家を作るために、150年前の江戸幕末という混迷の時代を駆け抜けていった。それは、わずか33年の生涯だった…。

 私達が生きる現代も、幕末に劣らず混迷して、先が見えない時代と言われている。日米安保や米中間関係で大きく揺れている。沖縄に集中する米軍基地問題、中国と米国という大国に挟まれた状態・・・本当に日本は大丈夫なのだろうか。

 もし、この時代に龍馬が生きていたらと、つい思ってしまう。あの幕末動乱の日本を豪快な笑顔で日本を一つにまとめてくれたように、現代の世界・地球をまとめ、ひとつにしてくれるのではないだろうか。否、それは僕たちがやることだ。僕たちが“世界を洗濯する“新しい龍馬にならなければならない。これが龍馬のメッセージだ。

<補足>坂本龍馬の名言

画像2

一、日本を今一度洗濯いたし申し候

二、俺は落胆するより次の策を考えやる方の人間だ

三、人間というものはいかなる場合でも好きな道得手の道は捨ててはならんものじゃ

四、自信は努力から

五、世の中の人は何度も云へば云へ、我がなすことは我のみぞ知る

六、日々の努力

七、困難に打ち勝て

八、人に頼るな自分でなせば叶う

九、焦らず弛まず怠らず

十、一歩一歩進め

<参考文献>

・「坂本龍馬ー明治維新の原動力ー」砂田 弘 (講談社)

・「坂本龍馬」横山 充男 (ポプラ社)

・「坂本龍馬ー日本の洗濯に挑むー」小西 聖一 (理論社)

・「明治維新を仕掛けた男ー坂本龍馬ー」北川 幸比古 (岩崎書店)

・「坂本龍馬ー幕末の風雲児ー」西本 鶏介 (ミネルヴァ書店)

・「龍馬を愛した町を歩く」山縣 基与志 (毎日コミュニケーションズ)

・「東京人 坂本龍馬の江戸東京を歩く」(都市出版)



 

 


いいなと思ったら応援しよう!