酔生夢死


SNSに投げた感傷の言葉。名付け、排出された感情。俗物となったそれは、エンタテインメントの一環同様で、皆の自己表現の踏み台とされる。所詮人間なんて利己主義で、コミュニケーションとか取れたもんじゃない。

永久機関が存在しないことくらい言葉では理解をしていた。なくなることより、あること。死ぬことより、生きること。私たちは命脈を保つことに慣れてしまっているから、いつまでも慢心していられるのだ。油断している。ずっと。

モラトリアムの失落

何もできなくなってしまった。

絵も、文章も、化粧も、矜恃のない自己愛に縋ること
や、センスを磨くことさえも。全部。積み重ねてきた感受性は大人になった途端、風船のように飛んで行った。残されたエナメル質でさえ、恥ずかしくて隠しちゃう。こんなことなら大人になんてなりたくなかった。人前で涙を流すこと、心の奥底を打ち明けること、同情を売る行為全てが子供らしくて、厭らしい。赤色のリップと鋭いアイラインで演出する大人なんて欲しくなかったのにな。失うものが多すぎる。

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