「演じる」の目的になっているもの
日仏演劇協会オンライン講座 「西洋演技論史講義 第1回「西洋演技論史」とは何か」
を受けて、考えたこと
横山義志さんのzoom講義、いろいろ考えられて面白かった
第1回らしいので続くんだろう、私のメモ見て気になった人は普通に次回からの講義を受けるのがおススメです、私のメモとか間違ってる可能性全然あるしね
まずは講義メモ
(これは私の考えたことを踏まえるためのメモで、当然ながら講義はもっと広く深くでした)
■演じる、という言葉は○○を演じる、という使われ方をするが、その目的語になっているものは大きく二つあって
「芝居を」演じる(α)…能を演じる、歌舞伎を演じる、等
と
「役を」演じる(β)…ハムレットを演じる、等
(α)の場合目的となっているのはパフォーマンス自体、(β)の場合は登場人物やパフォーマンス内部の役割を目的としている
■渡邊守章氏によると、舞台表現の分類は「純粋演技」と「代行…(わたしがメモしきれてない)」があって
純粋演技とはパフォーマンスを行っている人がその人自身、つまり芸、を目的としているので(α)といえる
「代行…」はパフォーマンスをする人がパフォーマンス内部の人物を代行すること、つまり役を目的にしている(β)ともいえる」
■ラテン語における「演じる」を表す言葉の位置づけ
・遊ぶ(ラテン語ludere)
大きな枠組みを指す・遊戯をあそぶ「ludos ludere」
対して
・行う/行動する(ラテン語agere)は小さな枠組み
遊ぶをto play、行動するをto actに置き換えると、私たちでもなじみ深いと思う
つまり
遊ぶludere=to play→「芝居を」演じる(α)
行動するagere=to act→「役を」演じる(β)
ということ?
***メモここまで
わかりやすいー
演じるって、なんかあんまり分けずに考えてたけど、確かに芝居を演じるのと役を演じるのでは違うよな、と
ここで、行動する(to act)といえば、今の演技をつくるうえでのスタンダードになっている考えだと思い当たるのですが
(スタニスラフスキーの系譜の演技が世界で基準になっているから、講義で言ってた)
だからつまり、そういう潮流のなかで、目指されている演技っていうのは、役を演じるってことなんだな、っていう
role(役・役割)をact(行動)すること、役を役らしく演じることが、つまり演技で目指されていること、というのが、世界共通認識?なのかっていう
わかりきったことを、て感じかもしれませんが
わたしは講義を聞いてて、わたしは最近もっぱら、役を演じることよりも、芝居を演じることの方が興味あるのかも、てことに気付いて
ずっとうまく言葉にできなかったんだけどそういうことだったのか、、、!という
わたしの中では、役を演じること、というのは、2パターンありますが
①役の立場に自分を近づけること
②役を自分の感覚に近づけること
後はこのグラデーションの中にあると思っているのですが
まあどっちにしても、役と自分を近づけること、重ねようと努めること、が、役を演じること、と捉えてたんですね
でも最近、役も俳優も同時に舞台上にいるだろ、登場人物として出てきたって俳優を無視できないだろ、みたいなことを考えたり、
そもそも役にはなれない(というか、役にはなれないということをポジティブに捉えていて、他人として尊重していく、成り代わろうとしないスタイル)というのが大事なんじゃないか、とか考えていて
わたしは現前を無視しない、舞台上にいるのは私だし、わたしは作家の言葉やある人物のセリフを(つまりは他人の言葉を)喋ってますよ、というふうに演技出来たらいいなと思っていたのですが
でもそれって一般言われる演技じゃないような気がする、とも思っていて
だからわたしが目指したいのは、というかいま興味のある演技は
to act じゃなくて to play なのか!という
わたしはパフォーマンス自体を目的にして演技したいのか!という
超クリアになった~~
でもここで思うのは、とはいえto actできる俳優の方が、to playも出来るんじゃないか、という予感もしている
まあ端的に言うと、世界の共通認識の中で上手だとされている方がきっとパフォーマンスを目的にしたときも通用していく気がするっていう
まあ勘ですけど
だから、actのことも忘れずに(いうてもやはり基本だから)、playのことを考えていきたいなってメモでした
追記
最近「二十世紀俳優トレーニング」って本を読んでるんですけど、こちらも演技の系譜を追うのに分かりやすくまとまってておススメです
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