(メモ)演技と演出の領分
演技態を考えるとはどういうことなのか
小説を上演にするという試みがあって、考えたことなど
上演=立ち上げること、と思っていて
そもそもテキストを立ち上げるとは
【テキスト】<【事象】<【観客】
↑演技
↑演出?
立ち上げる作業は演技でありうるけど、立ち上げた先(観る人)がいることは無視できない。この<観せる>表現は即ち演出なのか???
や、もちろん、演技もかかわってくる、当然ながら
【テキスト】< 【事象】< 【観客】
≪ ↑ 演技 ↑ ≫
≪ ↑ 演出 ↑ ≫
異論もあると思う、仮の図です
演出(構造)の領域は被っている。不可分ではないかもだけど、被るからにはかかわりがある
ただ、並走はしてるけど、ラインが違う、というのはわかる
立ち上げるときに、構造を立ち上げようとすると演出(観る人を想定したパフォーマンス)になる?
じゃあ演技で立ち上げるって、?やはり意味内容を取り上げるのが演技なのか
乱暴な気もするけど、演出は構造とも言えるかもしれない、構造はなぞることが(ある程度誰でも構造にそって具体的に取り組むことが)可能な気がする
(そうすると演技ってなんなん、特殊能力なの?でも演技だって細かくすれば体系だって取り組めるはずなんだけど)
素人でもできる(演技をしたことなくて理解できるレベルの構造の)ルール等の立ち上げを演出と呼んでいるのかもしれない、それはすなわち、鬼ごっこのルールが理解できればみんな鬼ごっこができる、とか、野球のルールが分かればだれでも野球ができるとか
出来ないことは応じて易しいルール―を規定しなおせばいいわけで、ボールが届かないなら距離を変えるとか、走れないなら全員走らないルールにするとか、
ルールを応用して易しいルールをつくれば、(もう野球じゃない可能性はあるが)誰でも取り組める、
でもプロ野球選手になるには、ルールの中で強者(スポーツは勝敗の行方を追って楽しむものなので)になるために技術的に特化してる必要があるってことか
演技をできる人(なんだそれ?)は演技に特化している技術を持っていることなのか
と、私は考えているらしい、少なくとも私が志向している演技は、技術者として特化したものということなのかも
演出が構造なら、演技は構造ではないところ、つまりは構造の中では規定されていないあらゆることに取り組むこと?
テキストから立ち上げるのも演技だし、それを観客に見せること(表現)も演技か
わたしは立ち上げてくこと、事象にすることに興味が偏っていて、あまり表現というか、見栄え的なことに疎いことが改めて分かった
それは、表現すること(以前の私は、表現=観客に分かりやす届くことと捉えていた)に執心していた反動というか、そのことで出来ることが縛られていることに気付いたからなのだと今は思うけど
表現に疎いこともまた、演技の可能性(事象にして、その先への影響力というか)を制限してたのかもというか、怠慢なのかもしれない
もうちょっと文章らしく書きたかったけど、まとまらないので、とりあえずメモ
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