本質とウェットさは結びつかない

演技にはウェットなのとドライなのがあると思っているのですが

良しあしではなく、あくまでも質のちがいとして


ちなみにわたしの演技は圧倒的にウェットです、超ウェッティー


で、そのこと自体は何となく自覚してたのですが、ふと最近気づいたのが、

それって私が人間の本質をウェットだと思ってるからじゃないか?という


わたしは、演技するからには、やはりその人物や物事の本質を突き詰めたいというか、

演じる人物や事象をあらゆる角度から見極め、吟味し、真実をやるぜ(?)みたいな気概があるほうなのですが、

その考察などするときに、ウェットなものを本質と捉えてしまうというか、ウェットなように物事を選んでいる向きがあるな、と思った


「ドラマの基本は、何か2つ以上の相反すること、すなわち葛藤だよ、」みたいなことをまま聞くような気がしているのですが

たとえばその葛藤、みたいなことを演じるときに、何故かウェットな方向でとらえるのを好んでないか?という

まあわたし自身がじめじめした人間なので、ウェットなことを本質と勘違いしている節もあると思う

(すべての俳優が俳優自身の性質と演技の性質が同じとは思わないけど、)


ウェットじゃなくてもドラマって生まれるよね?全人類ウェットってことないもんね?という気持ちがわいてきた、


ちなみに、ずっとウェットって言ってますが、

わたしの感じるウェットさは、湿度・重たさ・悲哀/怒り/嫉妬などのマイナス方向の感情、感情のデカさ、とかだと思います

反対にドライさは、からりとして軽くて、という印象です、あと感情にもっていかれないイメージ


わたしがウェットな演技をするのは、まあわたしがそちらの方に楽しさを見いだしているからなので、それ自体が否定されるものではないのですが

(どういう演技を好むかは意識的に変えられないので、気が変わることもあると思うけど)

ただ好みによって無意識に演技の幅を狭めてるのならば、それはもったいないなと


ここまで書いてやばいことに思い当たったのですが、

わたしは、演技している時には手ごたえを感じていないとかなり不安になるほうでして、

で、ここがたちが悪いのですが、わたしは、その手ごたえをウェットさに感じている気もしていて、

これはかなりまずいのでは、、という

もちろん相手とのやり取りとか、コミュニケーションとかでも手ごたえは感じられるのだけど、

コミュニケーションをとるときもウェットなアンテナで拾って発信しているんじゃないか、、、?

手応えを質感だけに頼るのは危険ですね、、同じ質に偏るということだから、、

あと実際の演技の良しあしと質感はまじで関係ないから、、、

もっとほかのことで手ごたえを獲得できるか、そういった感覚的なものにすがらなくても舞台に立てるようになるか、できたいな

ドライな演技、、、できてみたいよな、、、


ていうかそもそも、本質かどうかと、ドライかウェットか、みたいなことは全く別の尺度であって、

本質がどうであろうと、どう表現するかはそもそも結びついてないというか

デカすぎ感情が渦巻いててもそうとは見せないことってあるよな、みたいな


葛藤といっても、昼の時間だから食べるか、おなかすいてないから食べないでおくか、みたいなささやかなのもあるし、

ふってきた思わぬ幸運に自分を遠くに感じることもあるだろうし、

からりと絶望することもあるし、


なんか、感情と表現方法を関連付ける必要ってそもそもないよな

だからまあ、仮に役柄をウェットにとらえていたとしても、ドライに表現することは可能ってことなのかもしれない



あとそう、ウェットさの(個人的な)危険性は、感情に依存してる向きがあるというのもあって

わたしは「演技は感情ではなく行動で示せ派」の人間なのですが、しかしウェットに手応え感じやすいので演技が感情に依っていく、ひいては行動をおろそかにしてしまう、

スタンスと演技がかみ合ってないじゃん、、、となる、、、

しかもなんか、そうなると感情を優先してた頃の黒歴史的演技に戻ってしまいやすいってことかもな、、そういえば覚えがある、、、



己の演技には手癖があるなっていうか、自戒のメモでした、、、




追記:ていうか人間の本質をやるぜって気概がそもそもウェットなのでは、、、??演技するときのスタンスから幅を持てってこと、、、?

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