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負け戦

 今日は、やるべき仕事に結構時間をとられて、やりたい仕事ができなかった。年末までそんな感じかなあ。また寝不足だ。あと今年もあと3か月。駆け抜けていきましょう。

 コロナがひろまってから、扉の画像のような掲示を公衆トイレでみたことのある男性は多いだろう。そして、その中の少なからずの人が、違和感を感じてるんじゃないだろうか。話題としては今更だろうけども。小便器は固定されてて、その前に立って用をたす限りはそれ以上お互いに近づきようがないんじゃないか。しゃべるなってこと?いや、しゃべらないだろ。知り合いでもわざわざその時にしゃべらないわ。あ、タイトルとは直接関係ございません。

ここに立っているということ

 誰しも大きな課題や試練を前にして、自身を失いそうになることはあると思う。私も年に数回そういう時がある。この仕事は、この役割は、他の人がやったほうがいいんじゃないか、もっとふさわしい人がいるんじゃないか。そんな風に思われてくる。周りの人に比べて劣っているんじゃないか、自分がここにいるのは場違いなんじゃないか。そんな風に感じてしまうのは確かにそこに至るまでのプロセスで手を抜いてしまっていたり(そう思い込んでいたり)、自分の納得のいくものができていなかったりすることもあるだろう。ただ、私は、そういう気持ちが起こってきたら、こう思うようにしている。「ここに立っているのは自分なんであって、他の人ではない。いろいろな条件が重なってここに自分が立っている。能力的によりふさわしかろうがなんだろうが、その誰かは現にここにはいないのだから、自分が一番この仕事、この場にふさわしい、その資格があるんだ」と。そう開き直ってみることにしている。

負け戦

 よく言われるように、ほとんどの心配事は杞憂に過ぎないのだから、そうやって乗り切れればいいんだと思う。もちろん、その仕事やその場に自信マンマンで臨めるのが理想だが、常にそういうわけにもいかんのだから、仕方ない。生きている限りは常に答えを出し続けていかないといけないのだから仕方ない。仕方ない、仕方ない。そう言いながら生きていくのはいかにもネガティブだが、私は「人生は負け戦」だと思っている。如何に損害を少なく退却していくか。そこに向けてポジティブに頑張っている。どう誤魔化すか、と言ってもいい。敵を打ち負かしながら目的地に向かうイメージで生きていると「戦闘に勝って、戦争に負ける」(だっけ?)ってことになりかねない。行きつく先はみんな同じく死なんだから、初めから負けることは決まってる。しかも、時間という不可逆な流れの中でそこへまっすぐに流されてる最中なのだから、負け戦以外の何物でもない。必死にその流れに耐えながらもなんとか無様じゃないくらいの表情と姿勢をつくってそこに立ってるんだから、もっと自信もっていいんじゃないか?これまで流されに流されてきた人間が言うことじゃないけども。。。

流されてもいいんじゃないか

 時には流されてもいいんじゃないか。意外と安定できる岩場にたどり着くかもしれないし、流されてるその状態に安定するかもしれないし。なんか初めと話が変わってきたぞ。この話自体が行くあてもなく流されてたというオチで今日はおしまい。また明日。

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