【論考】漫画キャラクターは死なない ――「いのちときもちとぱぱぱぱぱー!?」を読んで【じーさん大長編】

 この記事は2009年に個人ブログに書いた記事を、2012年にわざぼー個人ファンサイトに加筆転載し、2022年noteに転載したという経緯があります。その事情から、内容を『わざぼー』に寄せた部分があってタイトルの当該作品に関する論が横道にそれて読みにくい、煩雑なところがあります。
 そこは読み飛ばしても内容に支障はありません。が、同一作者の作品に関するものとして削除しませんでした。曽山作品に《死なない身体》と《死ぬ身体》のキャラクターが混在することに関する考察です。【追記 2022.12】

■ 警 告 ■

読者おのおのの解釈はあると思いますが、ここでは私個人の解釈を述べさせていただいております。ゆえ、解釈の異なる方もおられると思います。また、これは一個人の解釈であり、作品そのものではないということをご理解いただいたうえ、内容を鵜呑みにしないようご注意ください。


※ 当該タイトル作品と『わざぼー』最終回のネタバレがあります ※

作者が配慮したと思われる点(読者各々の解釈に委ねた)を私の解釈において話すにあたり、直裁な表現があるため苦手な方は覚悟してください。



は じ め に

 「まんがキャラクターは死なない」身も蓋もないタイトルです。
 とはいえ、まんがを読むに当たって――まんがに限らずあらゆるフィクションを楽しむ場合に、前提として踏まえておかなければならない重大事項と思います。

  Q、ゲームやまんがでは人が死んでも生き返ります。どうしてですか?
  A、ゲームやまんがだからです。


 こういったなんでもないことを疑問に思えなくなくなったとき、また答えが分からなくなったときが一番危ない。「空想と現実の区別がつかない」という事態であるといえるでしょう。

 *

 さて、この記事は2009年11月26日、管理人が別サイトのブログのほうで本誌連載中の『わざぼー』(第5巻収録「トイレのおばちゃんとわざぼー」)の感想に書いた記事から一つにまとまった話題を抜き出して加筆修正したものです。

 この記事は苦情を頂いたことがあります。
 その方はこれを読んで大変気分を害されたということでした。曰く、漫画について現実的な検証をするべきではない。また、子ども向けに書かれた作品なのだから深く考えるようなものではない、ということでした。

 まず、誤解がないように断らせていただくのですが、

 この記事は漫画と現実を比較検証し作品を揶揄するような内容ではありません。現実的な検証をすることへの批判はおそらくそういった行為と受け取られたことによる誤解だと思われます。私は「『じーさん』はいつも校長が死ぬのに子犬だけが死ぬのはおかしい」と言って作品内の矛盾をあげつらい、こんな話はデタラメだといって嘲笑しようとして書いたわけではないのです。

 むしろ、作者が普段「登場人物が作中で死ぬようなことがあっても次の話では生き返る」そのような前提(設定)を持つ作品で生きものの《生・死》をテーマに選んで描いた、というのがすごいことだと思い、筆をとったのでした。

 この作品では《生・死》が写実的に描かれています。しかし、『じーさん』という作品の性格あるいは読者への配慮のため、登場キャラクターに現実同等の死を描くことについてかなりの制限があったはずで、作者は相当頭を捻ったのではないか。

 その痕跡(と思われるもの)を追いながら、いかにして登場キャラクターの死を読者に納得させたか、普段どおりの“死なないキャラクター”たちと描き分けたか、読者への衝撃を和らげるための配慮を行なったか・・・そういったことを読み取ることで作品のすごさや感動を伝えたかった。

 ファンによる作品べた褒めの一種として理解してもらえれば、決して、この記事が作品批判ではないことを分かっていただけると思います。

 また、このように作品の構造的なものを暴くことによって“創作”という行為をするにあたり技術を盗む参考になるのではないか、とも思いました。《死なない身体と死ぬ身体》のキャラクターを混在させて、しかも「いのち」をテーマにした作品を成立させるなどということをした作家を私は他に知りません。



〔1〕 まんが記号説とは? ――大塚英志の論考より

 『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)において、大塚英志が戦前から戦後にかけてのまんがキャラクターの身体表現の推移を「まんが記号説」を前提として論じている。「まんが記号説」とは手塚治虫のインタビューの発言から提唱された。まんが表現はあらかじめ用意された絵(記号)のパターンを組み合わせてひとつの表情や状態を表す手法であるという。

 大塚は、手塚が“記号で表現する<まんが>を「絵ではない」”といったことに着目した。絵とは対象を写実的に描画したもののことを言うのであって、記号的に描くまんがには写実性は付与されない。ゆえに、手塚のこの発言はまんがが写実的な表現ではないことを言わんとした発言だったのではないか、と説く。

 これは登場するキャラクターにおいても同様であり、彼らも写実性を持ち合わせない――現実の生身の肉体を持っているわけではない。傷つかなければ死にもせず、性別もない。そういった“非写実的”表現であるまんがの中に、写実性を描きこもうという試行錯誤が手塚治虫以後、作家たちによってくり返されることになる。そして、戦後まんがキャラクターはさまざまな問題につきあたりながら写実的な身体を段階的に獲得していった――まんがという表現手法が多くの作家に描かれ多くの作品が享受されてきたという歴史的積み重ねにより発展していった――という論を展開しています。

 大塚の論には現代のまんがが記号表現によりながら写実的な描写を可能ならしめているというところまで説明されているのだけれど、ここでは本来的に“まんがキャラクターが写実性をもっていない”という説に注目したいと思います。



〔2〕 まんがキャラクターは死なない ――曽山まんがの写実性

実際に爆弾が破裂したら近くにいた人間の身体は見るも無惨なものになってしまいます。「写実」的な表現であれば傷ついた身体や死体をも否応なく描写します。けれども記号的なまんが表現では爆弾が破裂したら「煤けた顔」という「記号」を持ち出せばいいのです。つまり、記号的な表現で描かれたまんがキャラクターは生身の体を持っていない存在なのです。

『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)より

 大塚の論ずるところ、現在のまんがはある程度の写実性を獲得したようであるから、まんが表現が「傷ついた身体や死体」を描写しないといわれても俄かに信じがたい話でしょう。しかし、まんが表現における傷や死は“記号としての傷・死”なので、記号を組み込む、あるいは組み替えさえすればキャラクターは傷つき、死ぬ。組みなおせば治癒するし生き返ることも出来ます。

 「トイレのおばちゃんとわざぼー」〔『わざぼー』5巻〕は、大塚が説いた「まんがキャラクターは生身の体を持っていない」とする説を実証するような話でした。外傷が記号にすぎないことをはっきり示している。また、「不死身のゆうれいとわざぼー」〔同 4巻〕のバケラーにおいて記号的な死が描かれたことも思い合わせて、曽山はまんが表現が記号的であることに意識的でこの性質を積極的にとりいれつつネタを組み立てていると思われます。裏を返せば、まんが表現が写実性をもたない記号的表現であるとする以上、死は描けないし致命的な傷を描くこともできないはずなのです。

 先に現在のまんがはある程度の写実性を獲得しているようだと言ったけれど、それは写実的に描こうという意欲と写実性を付与し続けること、また写実的だと認識される表現手法の普及によって可能なのだと思う(やはり、本来まんがキャラクターというのは生身の身体ではない)。曽山の代表作品『絶体絶命でんじゃらすじーさん(以下略記:じーさん)』は写実性のない記号的表現を主に描かれる(巷で“ギャグマンガのレトリック”などと言われているものかもしれない 追記:2022-12-5)のだけれど、『わざぼー』は事情が異なります。

おそらく『わざぼー』は「なんでもあり」と銘打たれているものの、ある程度の写実性を持たせたかったように思う。そうでなければ「悪夢の記憶とわざぼー」〔同 3巻〕で血を流すみみみにむむがあそこまで怒りを覚える事もなかっただろうし、同じく3巻収録の「外伝」でまーがヘビーに攻撃を放ったことによる画面いっぱいの血しぶきの描写に残虐性はなかったはずです(ヘビーは死を象徴的に表現する“消滅”ではなく写実的に死んだと思う)。また、「悪夢の記憶とわざぼー」でむむの悪夢の中に白目をむいて倒れている男たちがいた。これはあきらかに写実的な死体を描こうという意図があったのではないか。しかし、『わざぼー』ではレイトーンやバケラーのような“まんがはあくまで写実性のない記号の組み合わせに過ぎない”という表現もされます。「わざぼー」は写実性と非写実性が混在する世界なのです。



〔3〕 写実性と非写実性の間で ――「いのちときもちとぱぱぱぱぱーっ!?」を読んで


この節以降当該タイトル作品のネタバレを多く含みます
気にされる方は、先に作品を楽しんできてね!
* * *

イ、校長の除外

 写実性と非写実性の混在という成立し得ない世界に対して曽山自身頭を痛めていたのではないか。そう思えたのが『じーさん』第19巻収録の大長編「いのちときもちとぱぱぱぱぱーっ!?」。タイトルの通り「いのち」と「きもち」をテーマにしているこの作品では元校長が排除されています。この理由について写実性と非写実性の問題を絡めて考えてみたい。

 元校長が大長編から除外された理由は本誌掲載時同時発表された「ワガハイを大長編に出すのじゃいっ!」〔『じーさん』 19巻〕にはっきり示されています。校長は大長編において、いつも死亡していることが指摘される。ある大長編で死亡したとしても、他の大長編においては復活し再び死亡することを繰り返しています。つまり、校長は“大長編において”死なない非写実的身体をもつキャラクターの権化のような存在”なのです。校長が参加することで非写実性が作品を読む際の前提として侵入し、今回のテーマで描こうとする「いのち」の写実性を奪ってしまう可能性があった。校長の除外は「いのち」の写実性を保つための処置だったのではないでしょうか(ただし、本編に干渉しないかたちで一コマだけ登場する)。

ロ、本編レギュラーキャラクターへの線引き

 以上校長が除外された理由を確認したところで本編に触れていきます。
 作品の大筋を以下にまとめました。【※ ネタバレです】

【ネタバレです】

 新しくできたペットショップステイルにじーさん一行(じーさん、まご、ちゃむらい、ゲベ)が立ち寄る。店内で一人はぐれてしまったゲベは売れ残って処分される動物たちが収容された地下牢に迷いこんだ。そこで一匹の子犬と意気投合する。彼を連れ出そうとするが、店主に見つかって銃で撃たれてしまう。ゲベは傷つき子犬は死ぬ。ゲベのピンチを聞きつけたじーさんたちによる救出劇と、死んだ子犬の墓をせめて地上に建てようと奮闘するゲベの姿が描かれる。

 作品では子犬の死が写実的に描かれなくてはなりません。銃弾で打ち抜かれた子犬は血を流して死にます。もし、非写実的記号表現によれば、銃創から血を滴らせて穴だらけになっても活発に動く事が可能であろうが、ここではぐったりと倒れて動かない。ゲベは死んだ子犬を背負って店主から逃れようとします。そのとき、死がいは「にもつ」のように「おもい」。この重みは現実に感じ得る重さであり、やはり写実的な傷を負うゲベにずっしりとのしかかってくる ――ゲベは無限の腕力を備え、あたかも傷がなくなったかのように軽々と子犬を運び続ける事は出来ない ――そして、ゲベ自身も危ない状態になる。
 このように、ゲベも子犬も写実的な身体を獲得しており、一方は傷つき、一方は死んでいる。間違いなくレイトーンやバケラーのような身体表現ではありません。

 このように本編レギュラーキャラクターであるゲベは本作においては写実的な身体を与えられています。しかし、他のレギュラーキャラクターたちはどうであるか。結論から言えば、彼らは依然非写実的な身体のままなのです。これについて店主からの逃亡劇を中心に見ていきます。(なお、これに参加しないちゃむらいについては割愛します)
 


 逃亡中、じーさんとまごはかなりの運動量であるだろうにも拘わらず全く息切れしません。彼らの非写実性は徹底しており、記号的にしろ息切れをあらわす「嘆息」の記号や、体温の上昇をあらわす「汗」の記号を組み込まれてもいいはずだけれど、それすらない。「汗」は焦りや呆れの感情をあらわす記号として使われており、生理的作用によるものではありません。

 ゲベも2人と共に無表情に走ってはいるけれど、先に記したように子犬の重みと傷の痛みに耐えられず倒れてしまう。倒れた2匹を担いでなお、じーさんは疲れを憶えず逃げ続ける事が出来る。――ここでゲベが倒れた瞬間、じーさんたちとゲベの間に非写実的身体と写実的身体の線引きがされたとも考えられないか。担ぎ上げられた事で、写実的身体は非写実的身体の止まることを知らない運動に巻き込まれずに済むのです。

ハ、死なない身体と死ぬ身体

 作中には非写実的な身体(死なない身体)のキャラクターと写実的な身体(死ぬ身体)のキャラクターが混在する。この作品においてゲベは写実的な身体を獲得したと言いました。しかし、途中でこの写実性は失われます

 じーさんとまごが店主の放った地上最強のネコ「デビル・キャット」に襲われてピンチに陥った。そのとき、子犬の亡霊のようなものに呼びかけられてゲベは目を覚ます。そして、子犬を背負ったまま地に降り立ちます。この瞬間、ゲベはふたたび非写実性の世界に足を踏み入れることになるのです。また、《地上最強》のデビル・キャットと対峙したとき、このネコとゲベの血のつながりが明らかになる。《地上最強》とは言葉の通り《最強》であるから、一切の加害を受けつけない存在であり写実性からは逸脱した肩書きといえます。その名をもつネコの血統にあるゲベに写実性があるとも思えない。地に降りると共に、血筋によっても、ゲベの写実的身体は打ち消されるのです。

 以降、背負われた子犬以外はレギュラーキャラクターおなじく非写実的な身体をもつキャラクターたちのみのやり取りとなる。店主は、じーさんらに寝返ったデビル・キャットによって店と共にボコボコにされる。店の瓦礫に埋まる店主はそのような状態にあるにも拘らず「大怪我」の記号を付与されてピクピクと“生きて”いる。ここに描かれた傷は先の子犬とゲベにあったような写実性をもつ身体表現とは異なるように思えます。



〔4〕 再び、まんがキャラクターは死なない 

※ ここは【内容を考慮して読者の解釈に委ねた】部分でしょう! あまりに野暮なことを言っていました。そう読めなかった場合として雑に流してください(追記 2022.12)

 ゲベは花畑の中を死んだ子犬とかけまわる夢を見る。そのシーンに物語のまとめともいえるテーマを反復したテキストが添えられて幕を閉じるのだけれど、最後のページのゲベと子犬の会話を見るといまいち腑に落ちないことを言っている。

  ゲベ「ところでさーオマエってホントに死んだの?」
  子犬「ううん。」
  ゲベ「あ、そーなの?」

 物語内で子犬は確かに死んでいるのに、どうしてここで子犬は自分の死を否定するのか。逃亡劇の最中気絶したゲベのもとに子犬が亡霊になって現れた。そのような表現があったからといって、この会話が“子犬はゲベの心の中で生きている”と言おうとするものとは思えない。「あ、そーなの?」という淡白な反応はゲベがポーカーフェイスなキャラクターだとしても、ひどくあっさりしているように思えます。

 これは結局のところ、写実性をもたない記号的まんが表現においては本当の死を描けないという作者の感慨というかもどかしさというか、そういうものを込めた会話だったのではないか。写実的な身体を付与した子犬は銃弾で打ち抜かれるという致命傷を負って死んだけれど、非写実的な身体をもつ店主は大怪我を負い瓦礫に埋まったにもかかわらず死なない。記号を組み合わされてあたかも大怪我を負ったような状態になっているにすぎず、記号的で非写実的な怪我なのだ。このように、キャラクターが担う身体性の違いによって生死が別れるということが同一作品上にあるのは不平等だし、不自然なことではないか。そういったことに疑問を感じたのかもしれない。



〔5〕 記事を書いてから3年 ――感想と追記

 「まえがき」にも書きましたが、この記事は2009年11月26日に別サイトで本誌連載中の『わざぼー』の感想に書いた記事でした。ここで作品がどんなふうに描かれているのか? ということを確認したのには、「いのちときもちとぱぱぱぱぱーっ!?」という作品を読む以外に『わざぼー』を読むための参考にする目的もありました。

 記事本文では、ほとんど触れることができませんでしたが『わざぼー』もまた《死なない身体と死ぬ身体》のキャラクターを混在させています。この作品ではキャラクターが死ぬ、あるいは死を暗示する描写があります。一方で記事のなかで紹介したレイトーンやバケラーのような一見死なないキャラクターも登場します。

 当時『わざぼー』は雑誌連載中で物語がどんなふうに展開し結末を迎えるのかわかりませんでしたから、この作品が最終的にキャラクターをほとんど全員死なせたような描写で終わることなど知る良しもありません。とはいえ、作品のムードが生・死をめぐる登場人物同士の交流であったり、また、命あるものとして、その力の限りをやりぬくこと ――いわゆる“命がけ”ということによって登場人物の心情を表現していた。そうでありながら、死なない身体のキャラクターも存在する。

 それで一体どうやって生きること・死ぬことへの感情を表現する事ができるのか

という疑問があったのでした。

 これは「まえがき」で否定した作品批判に該当するものでしょう。・・・けれども、私には“私が矛盾と思える点”があるからといって作品が取るに足りないものだと言うつもりはありません。おそらく、その矛盾は“作者にとっては矛盾ではない”。作品がどういった性格のものか、どのように描かれているものかを見据えて、私が疑問に思った矛盾を解消すれば、真っ直ぐに作品と向き合えるのではないか。

 果たして、この作品(『わざぼー』)ではキャラクターは死ぬのか、死なないのか。“消滅”という描写は現実における“死”の暗示なのか?それとも、本当に“消える”ことだけを表現しているのだろうか?

 この記事で詳しく触れることはできないけれど、『わざぼー』における死を暗示した表現を3つ挙げる。戦いに敗れたキャラクターの多くは“消滅”する。一方、主要キャラクターであるむむとめんめんは致命傷を負ったことで意識を失い、登場キャラクターによって「死んだ」と説明される。また、みみみとまーは戦いの末、崩れる建物から逃げ損ねたような絶望的状況が描かれたあとに建物の遠景に切り替わり崩落の様子が描写された。

 “消滅” ・ 致命傷と他のキャラクターからの「死んだ」という台詞による説明 ・ 建物からの逃げ遅れを予感させる描写と建物の崩落。どれをとっても“死”を暗示するようではあるけれど、直接的な死ではありません

 「死んだ」と説明されたものはたしかに「死」の描写以外の何ものでもないように思えるけれど、これは登場キャラクターの、しかも、彼らに敵対し殺そうと危害を与えたキャラクターの見解なので、願望的な“手ごたえ”を言うものとも限りません。

 『わざぼー』の登場人物たちが大好きだった私としては全員生きていてほしいので、これが表現手法による“死”であって、現実と同等の“死”ではないと思いたい・・・それこそ願望的な見方でしかないけれど。

ふと、今回記事とも作品とも直接関係のない話題を差し挟むのですが、現実の事象を模倣し表そうとする表現はどれをとっても暗示であって、実際ではない。そのように事象そのものではない抽象的で曖昧なものとして描く手法は漫画に限らず舞台演劇などでも効果的な技として愛好されてきた歴史があるように思います。

 とりあえず、『わざぼー』は続編の『わざぐぅ!』に物語は引き継がれ、続いています。詳しいことは作品が締めくくられてから考えたいと思っております。

 *

 論の締めくくりとして、この記事を書いてから大分間が開きましたので私のほうでも考えが変わった事がいくつかあります。本文に書いたことへの訂正あるいは補足として追記させていただきます。

追記 2012年・記

● 写実性の付与について
 〔2〕の3段落目で現在のまんがが写実性を獲得していることについて私なりに考えた理由を述べました。これに少々の訂正があります。

現在のまんがはある程度の写実性を獲得しているようだと言ったけれど、それは写実的に描こうという意欲と写実性を付与し続けること、また写実的だと認識される表現手法の普及、あるいは“読者の写実性を認識する理解力”によって可能であると思われる。

 “”部分を追加したのは写実性を付与するのは作者ではあるけれど、それを読み取るのは読者であって、結局のところ読者が写実性を読み取る事が出来なければいくら作者の意図があったとしても無視されてしまうというのが本当のところではないか、と思い直したからです。作品が「読み取ってもらえるはずだ」という作者から読者への信頼によって描かれていると考えてみれば、私の“読み方”を書いた記事は作者の表現に疑問を呈するものであって、その信頼を裏切るもののように思われるかもしれません。

 この記事は作者と読者の表現を介した信頼関係を念頭に置く人にとっては不可解な記事であったように思います。


● ゲベの夢の中、柴田との会話について
 これについて、記事では“《死なない身体と死ぬ身体》のキャラクターを混在させることへの作者の消化不良をキャラクターによるやり取りで吐露したもの”という風に結論したのですが、素直に読めばやはり“たとえ「いのち」が途絶えても「きもち」を汲んでくれる仲間がいれば存在が忘れ去られ捨て置かれるようなことはない”ということを言わんとして挿入した会話でしょう。やりとりのそっけなさは読者が受け止めるテーマの重圧を軽減するための配慮で、作者の語りの上手さのように思えました。


● 瓦礫に埋まるステイル
 少々複雑な話(煩雑でもあるかもしれません)になります。
 記事内では散々“ステイルは死んでいない”ということを強調していました。(そういえば、本論のほうではステイルを名指ししていなかった。ステイルとはペットショップの“店主”のことです。)これはあたりまえといえばあたりまえのことで、悪人とはいえステイルを殺してはマズイ・・・

 と、倫理的な観点でものを判じるにとどめず、作品の構造から考えてみたいのですが、この作品のステイルというのは作品で訴えたい意見に対して“否定的な考え方”の権化といえる。その“否定的な考え方をする存在”ステイルに主人公らが反論を示すことで、伝えたい内容をより強く訴えていくという方法をとっているのだと思います。この論のぶつかり合いが戦いによって描かれており、“否定的存在”に反論する行為が討伐として表現されているのです。

 「いのち」「きもち」の大切さを訴えていながら、ステイルに暴力行為をおよぼし死ぬような目にあわせているとは何事か。それこそ作中で悪の行為として言った「いのち」を粗略に扱う行為ではないか。などと疑問に思わなくもないですが、ここで行われた暴力は「いのち」を粗略に扱う行為それ自体として描いているのではなく、あくまでステイルに対する反論を言わんとする表現だと受けとるべきところでしょう。

 話がかなりまどろっこしいので理解しにくい話題だと思いますが、“子犬の死”は疑問を促す事件であり「いのち」が粗略に扱われる事態について問題提起したものである。一方、“じーさんら主人公陣との戦いの末ステイルが負傷した事”は戦闘で表現された論のぶつかり合いの結果、ステイルが論破されたことを彼女が戦闘不能の状態に陥った姿で描き表現しているものと思われます。

 ・・・やはり文章で書くと分かりづらいので作品構造を簡略に表でまとめてみました。

 子犬とステイルは同じように“キャラクター”として登場し“生きもの”として描かれ、いずれも“暴力”を受ける。けれど、それぞれ登場する目的が異なるのです。子犬は問題提起のための存在であり、ステイルは問題に対する一つの意見を代表した存在ということがいえるでしょう。子犬が受けた“暴力”は提起したい問題に関連した事件(「いのち」を支配・管理する他者から尊厳を否定される)を言うためであり、ステイルが受けた“暴力”は対立意見(主人公陣ら)から反論されたことを意味します。

 記事〔1〕ー〔4〕では子犬が《死ぬ身体》で、ステイルが《死なない身体》として描かれているという点を指摘したけれど、そのような書き分けがされた理由は登場する目的のためであった、と考えれば納得がいくように思います。子犬が死ななければならないのは問題を訴えるためであり、ステイルが死なないのは主人公陣との討論の末に論破されたことを表現するためだったから、というふうに言うことができるのではないか。

  子犬を殺す必要はないのではないか?
  ステイルなんて死んでもかまわないではないか?


と、おっしゃる人もいるかもしれない。けれど、それぞれが死ぬとか負傷したとかの表現で描かれた理由を考えてみれば、納得行くことのように思われます。



おわりに

 さて、長くなりましたが、この記事では子犬が作中でゲベに名づけられた名前「柴田」を使いませんでした。深い意図はありません。・・・というのは、無意識にやったことでした。なんとなく柴田という名前を使うことに抵抗があったのかもしれない。ゲベが子犬に名をやった、ということに二匹の主従関係のようなものを感じ取ったからかもしれません。ゲベも柴田もペットという立場はおなじ仲間だから、名前をやったというよりも親近感からあだ名をつけたぐらいの意味合いかもしれませんね。「柴田」は柴犬でした。

 結局のところ《死ぬ身体》と《死なない身体》の描き分けについて、その理由の細かいことは丸投げにしたのですが、『わざぼー』の読み方を考えるうえで関連することのように思える点があったのでメモ書き程度に記します。

 子犬が担った問題とは、“生きもの”である動物が“ペット”という商品つまり“もの”として扱われていること。《“生きもの”であり“もの”であるペットとして売られる動物の「きもち」を認めるか?》を問うている。―― ここで子犬が死ななくてはならないのは、生命を奪われて“生きもの”から“生き”が消えた“もの”になる(子犬の“もの”としての意味が強まる)ことにより、さらに問題を深化させるためではなかったか。

“もの”にも「いのち」と「きもち」を認めるか?》

 《“もの”にも「いのち」と「きもち」を認めるか?》とは、「いのちときもちとぱぱぱぱぱーっ!?」に直接関係のある議題とは思えないので、子犬が死ぬ意味についてはもう少しちゃんと考えなければならないことだと思います。とはいえ、この問題は『わざぼー』にこそ存在するのではないかと思うのです。――流石にこれ以上話を続けるのは無理なので、また別の機会にしたいと思います。

 それにしも、私はかなり遠回りな読み方をしているのではないか。たぶん、全国の素直で良い子な曽山ファンは私が色々作業する手間など必要なしに、真っ直ぐに内容を受け止めることが出来るのではないかと想像します。ゆえに、こういった記事を煩雑に受け止めるでしょう。――こんなことをする必要はないのではないか?

 はっきり言って、私は曽山まんがが読めないのだと思います。
 読み方が下手くそなんです。

 それでも曽山作品が好きだから楽しく読みたいと思っています。

 私が紆余曲折して作品を読む様はさぞ奇怪に映るでしょう。けれども、これを書いた人間が作品を読んでいなかったり、作品や作者を嫌っている人間ではない、ということで、どうか同じ作家・作品ファンの一人が言った一個の意見として受け止めてやってください。



 それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。


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