20170529(アプ)

例のごとく、考察はハッタリみたいなものなので真に受けないでね! 書いた時期で解釈は変化するので現在も同じように読んでいるとは限りません。メモです。記事としての読みやすさに配慮していないので、読みにくいと思います。スミマセン・・・

以下、本文


● 死ね(殺す) = じゃま = 心が離れる = 嫌い (?)

死ねっていうのは、殺すってことで、じゃまになったってことは、嫌いってことなのかと考えると、それって心が離れてしまったのかな? とか思っちゃう。タクマにアプサラスがじゃまと言われるシーンがショッキングなのは、そういう意味の誘導だけを読み取るからだ。もっと細かく見ると、意味の繋がりを否定することができる。

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本来は好きなものの命を大切にするアプサラスは、たとえ好きなものでも《じゃま》なら《殺す(死ね)》と言う。けれど、それは虚勢だ。あくまでビーストとしてタクマに命じられた任務をこなすため割り切ってやっていることなので、半分ぐらいが嘘。

《じゃまだから死ね(殺す)》には、《心が離れた》とか《嫌いになった》なんて意味はなくて、じゃまなリスを死ぬような目に遭わせたことを泣くほど悔やむし、癒そうとする。決して、心が離れたわけじゃないし、嫌いになったということでもないから、じゃまを退けようと命を毀損するようなアプサラスの行動にはどこかしら噓がある

戦闘に敗れて、本心を汲んだ舞人から生きてタクマの雄姿を見たいんだろうと言いくるめられたアプサラスは、捕虜としてタクマのところまでの案内を了承する。道中、番人のケルベロスに見つかってしまう。舞人とケルベロスの戦闘になるが、アプサラスは本来同僚であるはずのケルベロスではなく舞人に加勢したので「仲良しじゃないか」となじられるやり取りがある。また、余計な戦闘を避けられる道をわざわざ選んで案内するアプサラスの態度に舞人も疑問をもつ。

「かまわんさ。おまえはタクマさまにたおされる。/どうせ、生きてこの島を出ることはできないんだ。」

8巻「地下の番人、ケルベロス」

と突き放した返事をするアプサラスだが、行動が示すように舞人になんらかの思い入れがある様子だ。あるいは、本来《命を大切にする》という人物だから殺したり死んだりという場面を避けたかったともとれる(これは、ケルベロスに舞人がトドメを刺す場面から目を逸らしている様子にも表れている)。いずれにしても、アプサラスは自分に嘘がつけなくなっている。ついには、タクマのじゃまになるものを殺してでも排除するという役目を果たせない。自身で直接舞人を手にかけることができなかった。

アジトの城でタクマと再会するシーンで、タクマが奥義を会得し侵入してきたK-1ジュニアファイターを実験台にして威力を試していた。割って入ろうとした舞人をアプサラスは抱きこんで制止する。タクマが奥義を使うじゃまはさせまいとしているが、じゃまになる舞人を自分の手で害することまではしない。タクマに見つかって、舞人がタクマの奥義に匹敵する力を持つと報告し取り押さえている自分ごと撃ちとれと進言するまでである。

● 抱きつくアプサラス

アプサラスは《守ろう》とするとき抱きつく。

過去の回想で、その思想ゆえに失格者としてほかのビーストから迫害されていたアプサラスは、飛んでくる暴力や石から守るため猫を抱き込んでいじめっこに背を向けていた。

タクマとの再会の場面で、舞人を抱え込んでいるアプサラスはタクマを《守ろう》としていた。一方で、舞人を《殺そう》ともしている。さらには自分も《死のう》としている。このように、舞人を抱え込むアプサラスの行動には《守る》《殺す》《死ぬ》という意味の重複がある。これはタクマの要求と与えられた守護者としての役目を果たすために吐いている嘘によって生じた心と行動の矛盾ゆえの歪さであるといえそうだ。

そもそもが命を大切にするアプサラスは殺すのではなく守りたいし、自分だって生きたい。役職のうえでは、タクマのためなら命を捨てることも厭わないし、じゃまになるものは殺すし、守って大切にしたい命を毀損するという。しかし、それは本来ならばやりたいことではない。だから、アプサラスは泣く。

泣きながら噓をついてでもやりきろうとしているのはアプサラスはタクマが好きだからで、どうして好きかというとタクマへの恩義があるからで、恩返しと好きな気持ちゆえに僕であることを受け入れている。

《好きなものの命を大切にする》《守る》ということと、好きなタクマ専属の《守護者》という役職はアプサラスの《好き》の行動と矛盾しない。だから、その役職を全うしようとする。けれど、アプサラスの台詞や作中で請け負っている役目を見る限りで、タクマはいつでも《じゃまを退ける》ことを要求しているから、アプサラスはじゃまと見做したものを傷つけたり、殺すようなことをしなければならない

舞人と行動を共にするようになって以来、アプサラスはじゃまな舞人を自分の手で殺すことはできなくなっていた。自分の命を自ら終わらせることもできなかった。それでも、タクマに拾われて今の地位を得た恩義に報いるために、守護者という読んで字の通りの《タクマの命を守る》ために舞人を抱え込む

《じゃまを退ける》ことしか命じていないのだから、アプサラスが《命を守ろう》とするのはタクマの意に沿わない。守護者というビーストの組織における役職からは矛盾しない行動だったとしても、タクマの意思ではない。つまり、アプサラスは自らの思想を優先してタクマに従わなかったということだ。

全部タクマに投げっぱなしにするのである。舞人を殺すことも、アプサラス自身を死なせることも、自らの意思と命を優先するために自分ではやらない。タクマが手を下すように突きつける

つまり、タクマに主人として振る舞うように要請する。ビーストの組織における役職に従うことは主従関係に帰結して、ビーストの頭首から部下への命令という形式上の意思疎通による結びつきを浮かび上がらせる。

舞人は《タクマが好き》《生きたい》《命を大切にするやさしさ》というアプサラスの本心を救い上げたことで行動を共にしたが、タクマは失格者から拾い上げて能力を育てあげ守護者に任命することで「つねに(タクマに)ついている」という状態を確保した。そのうえで命令によって意思疎通があるように繕っていた。

主従関係においてアプサラスはタクマへの好意を、現職に拾い上げられたという自意識によってしか示すことは叶わない。タクマの命令に従うか、役職に従うしかない。しかし、タクマが《じゃまを退ける》ことしか要求しない限りアプサラス本来の思想に矛盾しない《好きなもの》を《守る》という行動には結びつかない。

だから、アプサラスが抱きつくのは《好き》なタクマではなくて、じゃまな舞人なのだ。それは舞人を《殺す》ためで自分が《死ぬ》ことという、《命がけでじゃまを退ける》体裁を保ちながらタクマを《守る》ことができる行動だった。

主従であっては《守る》ために《好き》なものに抱きつくことは叶わないのである。

● 心が離れたことはない!

「おれの心がタクマさまから離れたことはない!」

8巻「2つの究極奥義」

…以上。書きかけでまとまりませんでした。

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