Aの人格を問うアンケート

※ この記事は「K-1ダイナマイト」の舞人の過去の回想エピソードにおける下瀬の行動をモデルに、作品・キャラクター名を伏せてとったアンケートを元に作成しました。(A=下瀬、B=舞人)
※ 2017年9月10日に別サイトのブログに書いた記事を一部修正し転載したものです。


【例題】Aは、いじめられてるBを助けました。そして「べつにおまえのためではない」と言い、いじめられている状況を打開できなかったBを殴りました。

Aはサイコパスですか? 厳しい人ですか? ツンデレですか?

(ツイート本文引用)

ご協力ありがとうございました!!!


拡散力がないので全く票が入らない覚悟でいましたが、結果が割れるだけの票数をいただけたこと、とても、とても、感謝しております。

● 意図と解説

アンケートは、感情や人物のバックボーンが記述されていない文章から読者が人物の人格をどのように判断するのかを問うものでした。【例題】には感情の記述は一切ありません。AがBにいかなる感情を持っているかも明記していません。また、「助けた」「おまえのためではない」「殴る」の論理的整合性を説明するAに関する情報もありません。

記述の限りでは、Aの人格の判断材料となるのは「いじめ」への対応だけです。Aはいじめが発生している状況が解消されるための行動をしています。「助ける」ことで状況を解消したし、「状況を打開できなかったことを理由にBを殴」ることで  いじめられていたBに状況解消の責任を問うています。

アンケート結果は割れました。なぜ「解釈は人それぞれ」になるのか



これはまず〈記述のなかに整合性のある情報を求めるか/自身が想定する前提で情報を補填して整合性を付与するか〉という分岐があったように思われました。

また、選択肢は《サイコパス/厳しい人/ツンデレ》です。Aの行動について【人道的価値観による客観的評価】をしたと思います。評価は■いじめが起こっている状況を解消するという目的 ■いじめられている人に 状況解消の責任を問う/殴るという手段 ■目的に対する手段の妥当性 のいずれに重きを置いたかによって変動したと推測しています。

以下は、それぞれの回答について選択した理由の考察です。

● 結果の考察

《ツンデレ》

を選んだ方は、行動パターンと特定の情動を結び付けてAがBに好意的感情があると発想したのではないか。「助けた」「打開できなかったことを理由に殴る」はBのためになる行動だから、そこに感情的な理由があると見立て「おまえのためではない」を照れ隠しと読んだのではないでしょうか。

また、デレを人情の発露まで意味を広げるというご意見を伺っているので、いじめが発生している状況解消のための行動をとったことに人情を認めて《ツンデレ》とした方もいるかもしれません。

《サイコパス》

(※ 人倫を欠いている人ぐらいの意味か。説明が曖昧でした)は、言動の整合性を補う前提(Aは拳の強さを示す必要がある生育環境だった、など)を想定できなかったか、「Bを殴る」という対応に倫理観がない(人を殴ってはいけない)という理由での判断と考えています。

《厳しい人》

はおそらく消去法での選択かと思います。感情の記述がないから《ツンデレ》は選べないし、言動の整合性を説明するAに関する情報が不明なので評価を保留にすると《サイコパス》は選択肢から外れます。あるいは、いじめられていたBに対して厳しい対応をしているという判断か。



 * * *

選択肢の優劣は問いません。色々に読んでるし、読めるもんだなぁ、というのを確認するものであり、この問いに正解はありません。ただ、今回人格についての評価という性質上、情報不足や想像が及ばないことに関して評価を保留にする判断や、評価を下すとき何に重きを置いているかを自問する慎重さがあったらいいな、と思いました。

あと、いじめ、よくない。

―― 以上 m(_ _)m


追記

デレは人情の発露だ、というご意見が面白いなーとは思ったのだけれども。私にとっては難解で哲学的な言葉だったので一体どういう理屈から言っていたのかわからなかった。

当時頻繁にやり取りをしていた、それをおっしゃっていた方の発言を吟味して思い返すところ、たぶんコミュニケーションのプロトコルが形骸化していると感じられた場合にパターンに即すだけの自動的な行動は人情を認められない。一方で、なんかしらの条件が揃うと人情から発した行動だと認定できる、ということだったと思う。

これは一理あると思う。しかし、私の人情から発するご意見として「コミュニケーションのプロトコルが形骸化している」とあなたが評価したら「人情を認められない」というのは理不尽じゃないか? と思える。だって、「プロトコルが形骸化した行動」と「人情」の相関の評価はそんなに単純じゃないもん!

また、「人情を認めた」場合は一体なにから、どうして、そのように評価したのか、ふんわりしているのでますます意味がわからなかった。

…感情的な表現で言っても話がふわふわするだけなので、もうこの書き方はやめるけれど、記述から行動の意味を理解する際に

イ)行為者の主観に則すか
ロ)行為者から行為を受けた人の主観に則すか
ハ)自分が行為者と同じ行動をした場合の判断に則すか
二)行為者から自分が行為を受けた場合の判断に則すか
ホ)行為者と行為を受けた人いずれの主観にもよらず判断するか

で違う評価ができるのではないか? と思う。そして極端には共感しやすいキャラクターなら人情を認め、共感しにくいキャラクターには人情を認めない、という話でもあろう。

 *

この人はこんな事も言っていた。多様な面を持つのが人間なのだから《厳しい人》の一側面において《デレ》が表出する現象が《ツンデレ》であり、人間にとって《デレ(=人情)》は不可分である。ゆえに厳しいだけの人は存在しない。そんな奴がいたら《サイコパス》だ、と。

つまり、この人は自身の論理基盤であり前提として言った人間が多様な面を持った存在というのを忘却し去ってでも、自分が人情を認められなかったそいつを人間と認めない。そのように差別的に扱う対象を《サイコパス》と呼ぶのだ、と宣言している。

これも一理ある。なるほど、この方の理屈をひっくるめて考えてみれば、キャラクターの性格描写への認識の齟齬「解釈は人それぞれになる」について完全に合点がいったので私は感動した!

* * *

キャラクター描写の方法や読者の感受性において「共感を拾えるか」の結果が、人情の発露としてのデレの認定、あるいはそんなものははじめからないサイコパスだと差別を決めこむ。そういった態度に結びつくのだろう。

……最後に、何か言い添えるとすれば、
やはり、いじめ、よくない。

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