他人の靴を履く
「世間というのは、君じゃないか」
太宰治の人間失格の一節で最も印象に残ってる部分
すなわち
客観はあくまでも主観の域を超えない
ということだと自分の中で解釈していて
たとえ客観的に物事を捉えたとしても
あくまでも「自分の中の客観」に収斂されてしまう
ものすごく核心をついた言葉だと思って
たとえ相手の立場に立って考えたとしても
自分の考えは完全に排除しきれない
だからこそ
個と個がぶつかっちゃう
妥協、折り合い、納得
色んな言葉で形容してみても
誰かがどこかで我慢してる
っていう真意は顔を出してる
だからこそ
完全な客観は無いとしても
他人の靴を履く
(ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー)
ことで少しでも自分の中の
大丈夫になるのかなっておもってます
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