本当の絶望は朝に気づくのかも
MUCCの15枚目のアルバム「惡」の最後の曲「スピカ」、
最初に聴いたときは"結構唐突にきれいなエンディングに入ったな"と思っていたけれど、実はそんなことはないのでは?というノートです。
※読書感想文のように私の主観で書いています。
SATOち脱退のお知らせが来た次の日から、毎朝起きると脳内Siriがスピカをかけてくれるようになった。今回のアルバムの中では、どちらかというと積極的再生回数は低かったはずなのにどうしてだろう。答えは数日後に突然やってきた。
夜が明けて もう 何もかも終わりだと嘆いた
「何もかも夢だったらいいのに」「朝目覚めたらきっと元通りの世界になっている」という映画や漫画の中でよく目にする感情は、現実の世界でもやっぱりリアルに人が感じるもので、チープな表現でも使い古されたものでもない。朝、目が覚めるたびに脱退は夢ではないことを把握する。
いつかに経験したような感覚があって思い返してみた。3年間お付き合いをしていた彼と、自尊心の低さからなる私の身勝手な感情で別れることになった。遠くの彼の実家にも泊りがけで遊びに行くほど交際は順調だったし、結婚も意識していた。でもわずか1か月の間に元に戻らないほどに関係を壊してしまった。突然だったので現実感は全くなかった。あのときもしばらくの間は、目覚める度に現実に突き落とされた。
本当の絶望は、朝にやってくるのではないか。世界に光が差す朝のことは往々にして希望の表現に用いられる。だが、希望を託して眠りにつき(そしてこの眠りは決して安らかではなく、眠れないこともある)、朝を迎えたときに希望がかなわなかったら、、、、?世界中がまぶしく輝いているのに自分だけ何か(誰か)を失ったままだったら、、、、?
優しいピアノでと控えめなストリングスで始まり、逹瑯さんの声が重なる。行進曲のようだけどこれまた優しいドラムロールがやってきて、その声に寄り添う。スピカの音は優しい。でも歌詞は最初から最後までずっと喪失についての言葉ばかりが並んでいる。星を探したけれど見つからず、眠るときに抱くのは壊してしまった星屑。すべてが過去形で物語られるこの曲は、結局失ったものを再び手にすることはなく、徐々に受け入れていったように聴こえる。
MUCCの曲といえば「絶望」というド直球なタイトルの曲があって、自分はつらい、自分は苦しい、と自分の中の塊を周囲に兎に角まき散らしているが、対局的な絶望の表現のようだ。
ただ、過去形で語られていることから、スピカのラストはきっと、その淵からは抜け出せている。どんなに辛いことがあっても、いつか過去として肯定的に捉えるようになる、という希望も持ち合わせているところが、いろんな経験を積んだバンドならではの優しさなのかもしれない。希望のある場所を指し示すような強さではなく、絶望からの回復に寄り添ってくれる優しさを。
アルバム発売当時のインタビュー記事はこちら
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