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人の数ほど

家族とはどんな存在ですか?その答えは人の数ほどあると思う。すぐに答えられなかったが考えて絞り出した答えは、自分をさらけ出せる存在。外で嫌なことがあったり、体調が悪くても我慢するけど、家に帰ったら何も考えず、そのときの感情をさらけ出しているだろう。他にも家族にしか見せていない自分はたくさんあると思う。

第2回目のカフェゼミは、「移動する家族」をテーマに「家族」について考えた。私は昨年母を亡くしてから、自然と家族のことを考えるようになった。だからどんなお話が聞けるだろうとソワソワしていた。

私の家族には土日はできるだけ家族で過ごすという暗黙のルールがある。私が幼い頃から母は病気だったので家族の時間を大切にしたいという両親の想いがあったからだろうか。(病気といっても普通に生活できたので専業主婦だった。)今はもう姉が社会人で忙しいので、自然とそのルールは薄れている。だけど今でも土日に家族で過ごすことが多い。だから休みのたびに家族みんなで買い物したり、遊びに行ったり、(私が小学生の頃は)キャンプをしたり、、、たくさんの思い出がある。

一昨年の冬から母の体調が悪化した。緊急入院し、介護生活が始まった。父は自宅勤務になり、毎日病院へ行ってずっと母のそばにいたり、姉は就職活動をしながら時間を見つけては母に会いに行っていた。もちろん私も毎日のように母に会いに行った。家族の母への大きな愛を感じた。それまで愛を感じなかったわけではない。むしろ過保護なところがあるし、仲の良い家族だと思っていた。だけどこの介護生活をきっかけに私の思っていた愛よりも遥かに大きく深い愛であったとわかった。

そしてめったに会えない親戚からの愛も。母方の親戚はもちろん、父方の親戚もみんなが母に、私たちに会いに来てくれた。元気がなかった私たち家族をいっぱい支えてくれた。離れて暮らしていても、変わらない愛を感じた。

母の入院をきっかけにわりと近くに住む親戚とはよく会うようになり、今では定期的にランチへ行く。日常生活や家族内の不満なんかを話す。それがすごく楽しい。きっかけは何であれ、親戚との仲が深まった気がして嬉しい。

一方で、離れて暮らす家族や親戚はお互いに想っていないと「身内」ではなくなってしまうのだろうか。カフェゼミで親が離婚されたという方とお話した。その方からすると出て行ったお父さんを「身内」だと思っていないそうだ。だから何十年も会っていないし、会ったとしても「身内」的に接することはできないだろう、とおっしゃっていた。そういうものなのだろうか。自分を産んでくれた親とは永遠のつながりはないのだろうか。私は前に、
"今自分が喜びや悲しみを感じることができるのは親が産んでくれたおかげである。"
と書かれた本を読んだことがある。その通りだと思った。だからどんなことがあろうとも親を大切にしようと思っていた。私はこの考え方しか頭になかった。実際に経験もしていないから、お互いに想いあわず離れて暮らすと「身内」ではなくなるというお話に共感できなかった。そして自分の考え方の狭さに気づいた。

はじめに言った通り、家族に対する考え方は様々で人の数ほどあると思う。だから自分と違う考え方があるのは当たり前だ。そうわかっていたはずなのに、やっぱり自分の家族観に囚われていたのだ。共感はできなくても、違いを受け入れて理解したいと思った。

またドキュメンタリーを見て、五人それぞれ様々な生き方や家族のあり方があった。
だからその人にとっての幸せも様々。家族に対する考え方が人の数だけあるように、幸せも人の数だけあるのだろう。そう思うと私も私なりに前へ進もう、頑張ろう、と前向きな気持ちになれたカフェゼミだった。

なんだか文章が行ったり来たりしてしまったが、「家族」について問い直すと、父も母もなんでもないとき、ふいに、「大好きな娘だからね」とよく言ってくれたのを思い出した。その言葉がすごく嬉しかった。自分は必要とされているんだ、というか。改めて家族を大切にしようと思った。

#MELCグログ #カフェゼミ18531_mb

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