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死生観と鬱病

22年弱の人生において、まだ四半世紀も経っていない娑婆僧の私でも「死のうと思ったこと」「死にかけたこと」がいくらかある。この2つのエピソードは、直結することもあればそうでないことも多数。

人間が「死のう」と思う頻度と、死に対する恐怖感、あぁ死にたいなという言葉、なんだかどれも別次元すぎて怖い。戦争が起きている国に死にたがりは居ないとかいうのと同じ(データを確認したわけではないので定かではない)。あれだけ死にたい死にたいと喚いていたくせに、密室で「お前殺すぞ」と殴られた時は何度も叫んだし、首を吊っても落ちる寸前で酸素を欲してしまう。
そのうえで、死は救済などと死んだこともない人間がほざくからおかしくなる。死にたい、と死ぬは同義語ではない。むしろ対義語だ。

たとえば、あなたは致死率2%の病気ですよ、とか医者から告げられる。2%!?SSR引いたら死ぬんかな!?などと考えているうち、「そういえば境界性の自殺率は10%だったな」と思い直す。
私の障害は1割死ぬ。ただし自主的なものである。

死への恐怖、とはあまりにも人間の本質的、本能的な感情(もはや感情と言っていいのか?)であり、それを紛らわせてしまう精神病って実はメッチャ怖くね?言葉のナイフ、ペンは剣よりも強し。しかも親から遺伝で引っ張ってくるの最悪すぎる。ただでさえガン家系なのに……。
アーこれ死んだ方がマシだわ^_^という状況には度々陥るけれど、なんとなく人生どうにかなってしまっている。酒とか薬に浸るのが、縋るのが生きたい証拠だと思う。何でもかんでも「じゃあ死ねば?」と言ってしまえるのは悪い癖だしまあ対人に於いて言わないけれど、じゃあ覚醒剤でもやれば?どうせ死ぬんだし。じゃあヤクザに喧嘩でも売ってみれば?どうせ死ぬんだし。と考えた時、踏み出せないのが“それ”なのだ。
私だって死のうと思う時割とポンポン物を捨ててしまうのだけれど、でもやっぱりこの手紙は、この写真は、このCD、とか


死のうっていうか、死ななきゃいけないみたいな強迫観念なんだよな。なんかめっちゃ死ねって思われてる!!たぶん私死んだ方が社会に貢献的!!!死にます!!みたいな。最期まで他人のせいにしようとすな。統失です。病院に行け。
しかしそのフェイズまでいってしまうとむずかしい。一回寝ろとか、一回酒でも飲めは割と正論だと思う。薬飲め。

高校生時分、めちゃくちゃ嘘を吐いていたカウンセラーには「あなたはとても客観的に物事を見れていますね」と言われたが、散々暴れまくった病棟の主治医には「あなたは主観的すぎる」と言われた。そんなもんだ。視野が狭くなりすぎる病気。ココロだけでなく、カラダまで侵食されてしまう。こわいよね。一回休もうね。

🍵


猫でも触れ

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