えにが来たところ向かうところ

何処かのだれかになりたかった。所属先だったり、分類だったり、婉曲的なわたしの説明、わたしについて直接的なことは何一つ言わないままに、数が増えるほどよりわたしに近づいていく情報群、宛名を書き忘れても大抵手紙は届いてしまう、そこが誰のものでどんな建物のどんな場所か何一つ知らないままでも辿りつけてしまう、そんな住所のような、
そんな肩書きというものから逃れたかった。

肩書きはわたしをイカつくした。
強そうな鎧をたくさん纏ったわたしは、もはや外からは、鎧しか見えなくなった。
鎧が強くなるほど、わたしの骨は溶けて柔らかくなって行く気がした。
人々がわたしにまとわりついた肩書きを用いてわたしのことを説明すればするほど、わたしの実態から逸れる気がした。
少なくとも肩書きで構成されたそれは、近似でしかない。それはわたしの気の持ちようではなくて、実際そうであるはずだ。どれだけ情報を並べても、無限に近似したとしても、それは一生本質には届き得ない。
わたしの抜け殻でしかない。アンドロイドみたいなものでしかない。それでも、みんなはそれに気がつかない。
鎧の中からわたしがすっぽり消えていても、きっと。

わたしってなんなんだろうな。
肩書きももちろんわたしの一部だし、それを否定する気もないししたいわけでもない。本来それらは、いろんな努力や経験の証明な訳だ。わたしにとってハッピーな要素なはずだ。今のわたしを助けてくれる、過去のわたしのはずだ。自信をくれるものでないといけない。
でもそれはあくまで、今のわたし自身がまずあった上で、それを支える程度でなくちゃいけないんだ。それがすべてになってしまうのは、前面に出てきてしまうのは、わたしを追い越しわたしを覆い今のわたしを隠してしまうのは、違うと思った。
過去が捨てたいわけじゃないけど、過去に囚われているのは嫌だった。
ただ、あまりにもでかすぎた。肩書きが。過去の栄光が。
外から見ればわたしは鎧がすべてだった。

わたしは鎧に閉じ込められ、鎧越しでは、本当の意味で人と目を合わせ手を合わせ心を合わせられている気分がしなかった。
別人の体を借りて生活しているような、ちょっとした違和感、あべこべ感。
鏡の国のアリスのような。マジックミラー越しに世界を見ているような。
自分でさえ、自分とともにいるはずの自分をちゃんと捕まえられているか不安だった。
わたしはもはやすでにこの鎧の中にちゃんといないのではないかと思った。
そんなはずはないと、信じたかった。
もし億が一すでに消えてしまっているとして、そしたら今思考をこねくり回しているのは、誰だ?どこにいるんだ?
わたしはまだギリギリ、生きていた。

わたしは家出をしたいと思った。
住所不定の少女A、何処かの誰かでしかない、一人の裸足の女の子に、一度なのか今一度なのか、なりたかった。
わたしを守ってくれるはずの強くしてくれるはずの鎧は、わたしには重すぎた、まだ早すぎた。足枷にしかなっていなかった。

そんな弱いわたしは、家出をするにあたって、雨宿り先になるような、仮の拠点みたいなものを欲しがった。
身一つで生き抜く力も覚悟もないくせに家出をするバカな少女が考えそうなことだ。
彼女は世を偲ぶ仮の名も必要だと思った。

それがミスiDであり、えにだった。

anyone anything anybody
何処かの誰かになりたい今のわたしにとって、えに(any)、という名前はぴったりに思えた。

I look like I have everything, anything someone might wish for, but I don’t have anything, at least not as much as I look, still somehow I must have something, anything is fine, just something, I want my own thing.
(なんでもあるように見えるけど、見た目ほどは何にもない、でもきっとわたしにも何かあるはず)

なんでもある、何にもない、どちらにも使われるanyはわたしそのものだとも思った。


これが、わたしがえにという名前になった理由。

えにはあくまで仮の名前で、わたしは今までもこれからも、死ぬまで一生、西村若奈だと思っている。(結婚したら誠意の証みたいな感じで名字は相手のものを名乗りたいなと思っているからそういう意味では変わるかもだけど)
その上で、住所不定えにとして、今少し家出しているだけ、そういう感覚。あくまで、逃亡中の、大人になる覚悟がちゃんと出来るまでの、しっかり自分の力量を見極めて把握して、現実と未来を直視して、自分の足で着実に歩いていけるようになるまでの、仮の名。
肩書きがあっても、生まれてからの22年間の中でいろんなものが付随した本名を冠していても、やたらいかつい鎧を身にまとっていても、中身の自分がそれに左右されず、負けず、自分の背骨でもって自分を支え、むしろそれを自分の味方につけ、自分の武器としてちゃんと使いこなせる、使い倒してやれるようになるまでの。


最後に、えににまつわるミュージカルの話をしたいと思う。
これはえにというものを思いついた時には特に意識していなかったし、えにを名乗りだしてからもしばらくは気づかなかったこと。
でもきっと根底にはあったんじゃないかなと(勝手に)思っていること。
ミスiDの期間中には全然ミュージカルの話をしてこなかったから、もう終わりかけだけれども、そういう意味でもいい機会ということで、WEST SIDE STORYの話をしたいと思う。影の主役、Anybody'sの話。

WEST SIDE STORYは説明するまでもなく有名な演目のひとつで、ストーリーも現代版ロミオとジュリエットと言われている通り(令和を生きるわたしからすると1950代もだいぶ現代ではないような気がするのだけど)とてもシンプルだ。
唐突な禁断の恋、恋と愛を理解しきっていない若い二人の間に横たわるのは大きな溝か壁か、敵は誰で味方は誰だ、善はどれで悪はどれだ、家族愛・仲間愛・故郷愛それらに優越をつけることはできるのか、愛とプライドはどう違うのか、境界を生み出すものとそれをぶち壊すものか、愛は境界を乗り越えられるのか、歩み寄る理由になり得るのか、どんな愛なら可能なのか、愛はどこまで強くなれるのか、強い愛は誰を何を守れるのか、自分を犠牲にしてまで何かを守るのが愛なのか。最後まで守るべきはなんなのか。
悲恋と一括りにしまうにはもったいないほど様々な愛を扱った話だとは思うが、展開が定番なのには違いない。

WEST SIDE STORYは人生で2個目に見たブロードウェイミュージカルで、一番観劇回数が多い演目。中一で初めて舞台を作る側になった作品でもある。節々で見てきたし関わってきた、だからなんだって話だけど。
今このタイミングで唐突にWEST SIDE STORYが出てくるのさすがわたしの人生だなって感動した。逆にいうと今は節目なのかなとも思った。

Anybody’sはわたしだ。

どこかのだれか(つまりanybody、一時期Bioにも書いてた意識してたわけじゃないけど) というのをミスiD始めた当初から割とテーマにしてるからってのもあるけれど
彼女は女でも男でもなくて、それは当時の時代背景もあるけれど単に性別の話にとどまらなくて、つまり彼女には仲間らしい仲間がいないんだ。あえて一人を選んでるわけでもなく、むしろ仲間をほしがってるのに、彼女には仲間がいない。

このストーリーに登場するすべての登場人物の中で、唯一。

Jets vs Sharksとか移民とアメリカ人、子供と大人の綺麗な対立構造で語れるシンプルな話の中で、境界線というものが分かりやすく引かれた世界の中で、唯一どれでもない、なれない子。
白人ではあるけれど女だからJetsにはなれない、かといってJetsの女にもなれない。Sharksから見れば敵の一員でそれ以上でも以下でもない。

取り上げられることはあまりない気がするけれど、段階としてはアメリカンと移民、の次に、でも強さとしては同じくらいくっきりと、WEST SIDE STORYでは、その時代には、女と男の境界線が存在している。

移民はアメリカンが嫌い、アメリカンは移民を見下してる、でもそんなJetsもアメリカの中では下流家庭の子達でみんな家庭とかに問題があってチンピラの集まりとして彼らもまた社会から迫害されている、だから仲間意識が強くてみんなで結束することで耐えてる。だからJets側、という広義の時はそこには性別は関係ない。まずは移民かアメリカンか、で分けられることには違いない。

けれどその中には、男と女の差別、少なくとも区別意識は、はっきりとある。Jetsには男しか入れない、戦いには男しか行かれない。女はあくまでJetsの女(誰々の姉妹とか誰々の彼女とか)としてしかその場に存在できなくて、時にはチッ男どもはって思うんだけど、でもそれが当たり前だから、それ以上何かしようとかはない。
 決闘会議とかの時は女は追い出されるし、それが普通で、だからなんだかんだ言っても男どもにみんな従うし、あとは無事を祈りながら彼らが帰るのを待つことしかできない。

彼女は彼女たちなりに強く生きているけれど、男女を分ける境界線はそうやすやすと越えられない。いいとか悪いとかではなく、女は女、男は男、として、その前提の上で、生きている。

でもAnybody'sはそれができていない。

はっきりとは述べられてるわけじゃないから、性自認が男なのか、女であることに違和感を感じているのか、性別云々そのものに嫌気がさしているのかとか細かいことはわからないけど
とにかく彼女はJetsになりたい。そしておそらく男になりたい。
Jetsに入りたいけど入れてもらえない、小さいけど使えるんだぞってアピールしても、女はスカート履いとけって追い出される。
別に広義では男にも女にも仲間だと思われているし、それは彼女もわかっているけど、女たちの仲間にもなれないしJetsにもなれない、その中途半端さに彼女は常に孤独を感じているように見える。

彼女は唯一、絶対的な味方がいない登場人物。

東大生として生きるにはバカすぎて、バカとして生きるには東大に受かってしまった事実が邪魔で、
男にはなれないし女でいることが嫌なわけでもないけれど、女であることを受け入れきれてない、まだどこか相対的な女、男ではないという存在でしかいられていない、
そんな自分と、同じだと思った。
えにのAnyは、Anybody'sのAnyだ。


WEST SIDE STORYはもちろん悲恋の話だし、JetsとSharksの境界線、移民とプエルトリコ人の禁断のボーダーを実際に超えていくのは超えようとしてストーリーを動かし世界を揺るがしていくのはトニーとマリアに違いないし、その辺とてもシンプルには違いないんだけど
ただ最初から、二人が境界線を緩め溶かし壊そうとする前から、Anybody'sという集団と集団の狭間に落ちてしまっている存在がいる、ということは、この世界の中で、ストーリー展開において、とても大きな意味を持っている。

そして実際に最近は、そこに注目をした演出がされることがとても多い。

Somewhereという曲は元々は、トニーとマリアが二人で誰にも邪魔されず静かに暮らせるところに逃げようとマリアの部屋で誓う歌。つまり差別も何もないフラットな世界への逃亡、イデア的な平和を、どこかでそんなものは実現しないだと分かりながらも、二人は夢見てるわけなんだけど、
まあ賛否両論はあるが、その歌中にイデアを具現化してそこに二人を導き、そのガイドとして、Somewhereを他でもないAnybody’sに一人で歌わせる、というのがよく見られる。

閉鎖された絶対的だと思っていた集合体をそれぞれ抜け、どちらでもないなんの集合体にも属さない境界線のない世界に逃げようとする二人にとって、二人の手を取って彼らの無謀な夢を優しく見守りSomewhereを歌う、二人とともに境界のない世界を目指してくれるAnybody'sは、キューピッドのようなものなのかもしれない。

彼女はどこにも属していないある種二人の先を行く人物であり、彼らの息苦しさを最も理解してあげられる人物である。
唯一仲間がいない彼女は、逆に言えば、唯一誰の敵でもないのだ。

WEST SIDE STORYは元々演出がたくさんあるし、曲順とか曲解釈とかは演出家や時代によって結構変わる中で、最近はSomewhreを概念的なシーンにして、当たり前だけどその場(マリアの部屋)に物理的には存在しないanybody'sを登場させ彼女に歌わせるのが流行っている。

それはすなわち、 彼女のキーパーソン度合いがその点昔より増えていると言える。

彼女の感じていた窮屈さ、ある意味すごくシンプルな人種差別貧富による差別だけじゃない、もっと一言で言えない疎外感孤独感、根付き過ぎていて差別だとも昔は気づいてなかった差別、
そういうものに焦点が当てられる、人種差別も貧富の差ももちろん今もあるけれど、昔より、たとえばWEST SIDE STORY初演当時より目に見えて分かりやすいそれらだけの時代ではなくなった、そしてつまりそういう方により観客が共感する時代になったということなんだろうと思う。

誰に感情移入するか共感するか、もちろん普遍的な悲恋としてトニーマリアはあるだろうが
Anybody'sに共感するという人は増えているはずだ。

WEST SIDE STORYがもし本当に、シンプルな差別しか扱ってない、つまりAnybody'sが存在しない作品だったら、これほどまでに現代にまで残る名作にはなってなかったのかもしれない。

Anybody'sは作品の中で、働きがJetsのナンバー2の兄に認められ、事実上Jet'sの仲間入りを果たす。だからといって彼女は男になったわけではない。作品で描かれていないその後で、彼女は結局Jetsの中でも色々と折り合いをつけていかなければいけないことにぶち当たるだろう。男だらけの集団の中の、唯一男ではない存在として、葛藤は尽きないはずだ。彼女はわたし自身だから、よくわかる。

女が女として必ずしも生きなくていいという意味でわたしや彼女のような人にとって当時より生きやすい世界になっているはずけれど、こう考えたら半世紀以上前からあまり変わらない部分も多い。この後の半世紀も、社会としてはやはり大きくは変わらないのだろう。だから結局は、わたしの気の持ちようなのだ。受け入れられるようになるしかない。いつか。
けどきっと一生こうやって、絶対的な女を目指しながらも、次から次へといろんな事象にぶつかって、こじらせた性とコンプレックスを持て余して、完全に割り切れることはないままに生きて行くように思う。そんな気しかしない。

それでもいいやと思えないとしても、思うために、わたしはiDに出たし、少しでも近づけたと思う。だから、今なりの『これでいいのだ』で、わたしは前を向く。しばらくはえにとして、いつかもう少し強くなったら、西村若奈として。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?