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王道だとか、ミュージカルとか①

どうせニートしているなら文章くらい書こうとぼちぼちパソコンに向かっているにちこです。誰もが読んで楽しい文章かはわからないけど、これからたまに、わたしが日々考えていることを書き散らかしていこうと思っています。(と書いたのが1月頭)
どうでもいいけど、この前慣れないですます調で書いたら書きづらくて仕方なかったのでやめる。かもしれない。
今回は簡単にいうと、ミュージカルは王道の詰め合わせ的な側面があってそこが好き、という話ですが、その前にまず前提として言っておきたいことがたくさんあるなと思ったので、①のこのnoteでは、とりあえず王道について書いてみています。

王道、とは

難しい言葉であると思う。定義をするのも、それぞれの持つ微妙なニュアンスの違いをすり合わせるのも。だからまずはわたしにとってのニュアンスをはっきりさせておきたい。

まずは参考までに広辞苑の文言を載せておく。
おう‐どう【王道】ワウダウ
①儒家の理想とした政治思想で、古代の王者が履行した仁徳を本とする政道をいう。↔覇道はどう。
②最も正統な道・方法。「歴史小説の―を行く傑作」
③(royal roadの訳語)楽な方法。近道。「学問に―なし」

今回考えていくのは②に当たるだろうが、割とふわっとした、細かいニュアンスまで踏み込んでいない、辞書らしい説明である。
それではわたしにとっての王道という言葉を、簡潔かつできるだけ意味の面で正確に言い換えるとしたらなんだろうと考えると、それは『あるある』ではないかと思っている。

あるよねー

ドラマを見ていて、突然音楽やカメラワークが切り替わる。私たちは『何かが起こる』とわかる。それは経験則による無意識の条件反射だ。その何かも、だいたい雰囲気でわかる。ドアノブに伸ばす手がクローズアップされたら、きっと心臓に悪い展開が1秒後に待っている。ホラーが嫌いなわたしは、この時点でだいたい目をつぶり耳をふさいでしまう。もしくは、映画がリビングになんとなく流れていて、画面の中の男女が唐突に無言になる。こいつらぜってえこの後キスするぞってみんなわかってしまって、なんとなくそわそわと気まずい空気が流れる。あくまで自然なふりをして、飲み物なんかを取りに席を外してしまったりする。
また、小説でも漫画でも、先の読めてしまう展開というものはいくらでもある。冴えない主人公は必ずと言っていいほど学校中の人気者と恋愛に発展する。スクールカースト上位のグループに目をつけられ、一人でいじめまがいのことに耐えるけど最後には彼が助けに来てくれる。そんで『こいつをいじめていいのは俺だけなんだよ』とか言っちゃう。事件を根本から見直すきっかけになる重大な真相は、推理に煮詰まってから発覚する。何気ない日常会話からヒントを得て、唐突に『助かったありがとう』とか言い捨てて走り出す。でも普段はその鋭い洞察力はどこかになりを潜めていて、ヘラヘラしたキャラだったりする。
こういうのはみんな、『あるある』だ。

『あるある』の意義

『王道』はみんなの安心である、と思う。映画で言うなら、まずは見る人の安心。誰しもお金や時間などなんだかの犠牲を払って見る以上、最低限外さないだろうという保証が欲しい。ホラー映画であれば、恐怖によるドキドキ、一種の興奮とスリル・非日常感を求めているわけだが、『おきまりのパターン』が組み込まれていることによって最低限のそれは確保される。そしてそれは作る人たちの安心にもなる。予告動画では肝心のどんでん返しの部分は見せられない。あくまで隠すまでもない『あるある』なシーンを採用しそれをばらまくことで、『おきまりのパターン』が組み込まれていることに安心したファン層を確保し、興行収入が最低限コケないようにすることができる。『あるある』が、ありとあらゆる博打的要素を孕んだ娯楽に分類される事象の上にのしかかる地に足つけずにはいられない人々の生活を守っているのだ。

王道、という言葉を言葉通りに受け取ると、それはすなわち『正統派』とも言い換えられると思う。正統派美人、といえば、よくいえば万人受けしそうな、悪くいえば可愛いけど没個性的な容姿なのだろうと想像がつく。王道なデートコース、と言われたら、いかにも一番普通な、よくある、無難に楽しめるけど特段驚くことも起こらないような、そんなプランが目に浮かぶ。
そもそも王道には、大衆受けする、とか、これさえ守ればまあ失敗はしない、みたいな保険的な意味合いが含まれているのだ

あるあるだけど、王道だから

ここで一つ考えてみる。上記のように言ってしまうと、あるあるとはすごく保守的な、作品をよくするため以外の思惑が多く働いた概念のように思われてしまっても仕方がない。でも果たしてその『あるある』は、作品を面白くなくしているだろうか。
今までの経験を思い返して欲しい。わかっているのにやめられない、展開は読めていたけど面白かった、やっぱりハッピーエンドは幸せな気持ちになれる。そんな経験は誰にでもあると思う。あるあるをどこかで待っている自分に気づいたことはないだろうか。答えは本能的に否であるはずなのだ。

これはわたしなんかの言葉ではなく多くのすごい方々が散々言ってきていることだが、王道が『王道』であることにはそれなりの理由があるのである。よく奇想天外なことをすることでオリジナリティを出そうと躍起になっている新人をたしなめる流れでよく言われている話だ。
今思いついたアイディアが本当にこの世で初めて考え出されたものかなんてわからない。今まで何百億人の人間が存在してきたのだから、むしろ誰かが過去にすでに思いついてその上で却下したと考える方が自然だろう。その一方で、王道はなぜ王道と呼ばれるほどまでに、あるあるに挙げられるほどまでに、多くの人に各所で用いられるようになったのか。それはやはり王道が相対的にも絶対的にも素晴らしいからに他ならないのではないか。もっとも広く一般的に高評価を受けるものということが繰り返し証明されてきたからではないか。
つまり『あるある』は才能とセンスの溢れる先人たちが積み上げてきた統計的なデータの結晶、過去の偉人たちがすでに導き出し終えている一種の答えなのである。

もう少し踏み込んで

あるあるは作品をつまらなくさせるものではないという話をしたが、むしろ『王道』は、例えばゲームを面白くするルール、あえて制限を設けることで作品を一段階昇華させる、俳句でいうところの5・7・5や季語のようなものだとも考えられないだろうか。5・7・5という音の並びは人間の耳に普遍的に心地よい。これは長い歴史の中で発見された解の一つであり、だからそのリズムが頻繁に使用された。ならばいっそ、それの使用をあらかじめ『ルール』として設けた詩の形態を確立させてしまおう、それを俳句と名付けよう、というのが流れではないだろうか。これはすなわち、あるあるではないだろうか。
最初に例に出したようなジャンルでいうならば、映画は大体2時間前後、舞台は大体1幕と2幕に分かれている、ストーリーは多くが起承転結の流れに沿っている、なども、あるあると言える。だがむしろこれらはもはやあるあるを超えた『暗黙の了解』『そうであることが当たり前のこと』と言えるのだ。そして、俳句の5・7・5のように『それがそれであるための定義の一つ』になることもあるが、それは当たり前がさらに進みその先でルールへと変貌していったものである。これは一般社会のありとあらゆることにも言える話だが、暗黙の了解とルールは、強制力に多少の違いはあれどこれらは全て一直線上にあって、そう大きく違うものではないのだ。

例えば5時間とかを超えるような映画を作ったとして、別にそれは監督の自由であり構わない。俳句とは違い、2時間前後の映像作品が『映画と呼ぶための定義』ではないので、制作自体は可能ではある。普通ではない珍しさと驚きゆえに話題にはなるだろう。でも果たしてどれだけの人が本腰を入れて5時間ぶっ通しでスクリーンの前に座ってくれるだろうか。人間の集中力などを考えても、2時間前後という現在もっぱら採用されている長さには、最も多くの人に楽しく見てもらえる長さとしてちゃんとした裏付けがあると言えるだろう。だからこそ、暗黙の了解の域にまで達しているのである。
王道は、ただのあるあるを超えた、緩さは様々あれど、ルールの一種とも言える場合があるのである。

王道の陰に隠れるもの

今まで、王道そしてあるあるは、長い年月の中で沢山の人が『これは一般的に良いとされることが多い』と思ったものの積み重ねである、という話をしてきた。だから王道は実際多くの人に多用され、愛されている。
でも、あくまで『一般的に』『多くの人にとって』なのだ。王道という言葉は、強く意識しないうちにマジョリティに肩入れしているような側面を持っている。
王道は歴史的そして統計的な一種の解には違いないが、恒久的に完全かつ絶対的な正解なのかと言われたら、それはそれで違うのである。

だからカウンターカルチャー的な発想は常に忘れてはいけない。次世代はいつの時代もそこから始まって作られて行くのは確かである。既出の正解を正解だと信じて疑わないでいる限り成長は生まれず、放置すればそれらはいずれ色褪せ『どこかで見たことのある何か』『見飽きた展開』『大衆に媚びを売っている薄っぺらいもの』に成り下がっていくだろう。
王道という言葉はそれ自身によって、『王道』の枠から外れるマイノリティの存在を浮き彫りにさせる。王道を完全に崇め持ち上げるというのはすなわちマイノリティを無視する行為であり、けしてそれがいいことなはずはないのである。

詳しいわけではないのでさらっと終わらすが、いい例として近頃話題になった映画にもこういった話が出て来た。題名にも採用されているQueenの代表的な曲『ボヘミアンラプソディー』は、約6分という長さだった。映画でも描かれているように、こんなに長い曲は『ほかにはない』(=あるあるではない)、だからラジオで流してもらえない、と反対されながらも、彼らはそのままカットすることなく世に出し、そして今でも世界中に愛される有名な曲になった。歌謡曲ならAメロBメロやサビ、などのように、音楽の世界にもたくさんの『あるある』がある。この曲のことはほんの一例にすぎないだろうが、彼らはあえてそのあるあるを壊していくことで、歴史を作った伝説のロックバンドとして今も名を残し映画にまでなったのである。

わたしと王道とミュージカル

最初に書いた通り、わたしは王道というものが好きである。肯定派、というのが正しいのだろうか。斬新なアイディアで攻めたいというよりは王道をどう面白く生かしていくかのほうがどちらかといえば興味がある。そしてそれは確実に、王道がちりばめられたミュージカルに触れる中で得たものだ。ミュージカルは面白い。王道の要素を多く持ち、むしろそれの寄せ集めのような顔をして、それでいてどちらかというとまだカウンターカルチャー的に分類される新しい芸術形態である。

わたしはミュージカルが好きだし、これまでの人生で一番時間を割いたのはそれとそれに関わることについて考え、手と体を動かしたことだと自信を持って言える。だからわたし自身やわたしの考え方について人にわかってもらいたいと思ったら、ミュージカルの話は避けては通れない。

本当はミスコン期間中からこうやって中身まで見てもらえればよかったのだけど、今からでもせっかく始めたnoteで一度ちゃんとミュージカルの話をしようと思い、今回の王道とかミュージカルとかを始めました。ここはわたしの頭の中を見てもらうための場だと思っているので、少しでもわたしに興味を持ってくれる人がいればいいなと思っています。②では、メディア・伝統とかもキーワードになってくるかなかなと思います。何回で終わるかな笑

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