2023.6.6 幸せなら手を叩こう、は真実かどうかについての雑記

「幸せなら手を叩こう」、真実なのではないかと思えてきた

言葉(や、文字の並び)が好きですが、同時に憎くもあります
言葉が好きなのは、甲冑だから
この甲冑を毎日身につけているせいで、脱げなくなってしまった
鏡を見ても私は常に甲冑を身につけている
しかしその下に、生身があることを忘れてしまえるわけではない(生身が消えてくれるわけではない)
生身は常に守られていて、同時に締め付けられていて、他者から殺されない代わりに自分のせいで鬱血していく

「ああ!」という言葉に、文字の並びにしてしまった時点で、「 」という叫びは、「ああ」としか認識できなくなってしまう
のが、怖い(嫌、なだけかもしれない)
本当はなんて叫んでいたの、ときいてみたところで
今度はあなたの甲冑が、あなたを隠すので

ここまで書いて、「手を叩く」のような合図ですら、駄目だと気づいてしまった
合図には、合図を合図にするための約束事が必要なので、その約束事を決める際に全てが駄目になる(私の希望にとって)
果てしない距離を渡る間に、かたちがかわってしまわないものなどないので、
他者がいるかぎり、ああ
これは「ああ」でいい、もう
溜め息や表情などの合図(態度)でさえも、私の希望の役に立たない
正しさは確かに存在するが、それを誰かと共有することは決して叶わない
生身で生きていたとしても、わたしはあなたではないし、あなたはわたしではない
おなじものをみつめることはできない

↑この状況を愛おしくおもえる人もいて、わたしはその人が好きですが、それがとても悲しい
悲しい、と射程範囲を大きくしておく


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