見出し画像

DJ エイジ インタビュー Vol.1

――音楽、特に洋楽に興味を持ったきっかけは?
「小学5,6年生くらいの、ちょっと色気づいてくる頃に『ゴースト・バスターズ』の映画を見て、レイ・パーカー・ジュニアの主題歌を好きになって。サントラのカセットを買ったのをすごい覚えてる。それが初めて買った洋楽で。同時期にマドンナの“Material Girl”とかマイケル・ジャクソンとかが流行ってて聴いてましたね」

――それからずっと洋楽?
「いや、世の中の流行りの音楽も一通り聴いてはいて。当時で言うとTMネットワークとか渡辺美里とかの超初期小室サウンドとか、レベッカとか。ニュー・ミュージック、ロック、バンドとかも一応聴いてはいた。それで中学に入った頃に2つの大きな出会いがあって、一つは『SONY MUSIC TV』っていう、洋楽のビデオを流す番組(※3)。その番組をビデオに録って繰り返し観ていて、そこでハードロックからブラック・ミュージックから、色んな洋楽を知ったんだ。もうひとつは、実家の近くのレンタル・ビデオ屋『ステーション』。そこのラインナップが結構マニアックだったのね。例えばマッシヴ・アタックとかUKダンスものやヒップホップも色々置いてあったし、ビデオにしてもわりとマニアックなサブカルチャー的なビデオに『これは絶対見るべき!』ってキャプションがついてたりして。一番近所のレンタル・ビデオ屋がそこだから、普通に行ってオススメされているものを借りてたら、当時の中学生にしてはわりとマニアックな音楽を自然と聴くようになってたんだ」

※3:テレビ神奈川制作で、毎週金曜深夜に洋楽のプロモーション・ビデオを流していた番組(1983年〜1994年)。後にKBS京都などネット局が拡大した。


――積極的に音楽に触れてはいたんだね。
「そうだね。あと中3くらいから『POPEYE』読みだして。これは僕の大きな転換期なんですけど」

――ほう(笑)。
「中1中2までは正直暗かったのね。人づきあいが出来なくて、まともに友達も出来なくて、バスケ部だったんだけど、ずっとサボっていかなかったし。当時どういう生活をしていたのか覚えてないくらいなんだけど」

――超社交的な今のEIJIさんからは想像できないね。
「マジで暗かったのよ。そんな暗い少年がある時たまたま『POPEYE』を読んで。中3の時だったんだけど、それがクリスマス特集号だったのね。こうやってオシャレしてデートするみたいのが世の中にはあるんだと初めて知って(笑)。こういう世界があるんだ、こういう音楽やカルチャーがあるんだと、京都の田舎の少年はものすごい衝撃を受けたの。中高一貫の私学に行ってたんだけど、スクール・カーストの上の人達は当たり前のようにそういう音楽を聴いてたり、そういうファッションをしていたわけだけど、僕はそのグループに入る気もないし、そもそもそういう世界があることも知らなかったし、向こうだってこいつはキモいくらいの存在だったわけですよ(笑)。そこからもう一回『POPEYE』を読んで……っていうとすごい軽薄に聞こえるけど(笑)色々リサーチするようになって。それで中3から高1にかけて服もガラッと変えて、音楽もより意欲的に色々聴くようになったんだ」

――ひとりの少年を劇的に変化させる『POPEYE』の影響力たるや!
「いや、マジですごいよね(笑)。そうなると音楽が好きな者同士で集まるようになって、一緒にU2とか来日アーティストのコンサートに行くようになって。けどその頃ニュー・ジャック・スウィングとかヒップホップとかが流行り出したころで、僕は(U2とかよりも)そっちの方がよりいいなーと思ってたの。そんな時にクラブのパー券売ってるヤツらからパー券を売りつけられて、日曜の昼間のディスコのパーティーに行って。そこで昼の高校生パーティーながらもクラブ・ミュージック的なものがかかってて、やっぱりこういう音楽ってカッコイイなーって思った。それで当時『Fine』『Cutie』『宝島』とか読んで、東京では『GOLD』ってクラブが最先端だってのを知って、京都には何があるのかなって調べたら『メトロ』ってクラブと『CONTAINER(コンテナ)』ってクラブがあるってのを知って。メトロにたまに行ってる同級生がいたので、一緒に行こうよって夜のイベントにも行くようになりました」

――暗かった少年が夜遊びをするようになったと。
「ですね(笑)。さらに高2くらいからスケートボードに興味を持ちだして。って、典型的なシティー・ボーイに憧れてる少年なんですが(笑)。その頃、第2次スケートボード・ブームみたいのがあって、俺もスケボーやってる同級生と一緒にやるようになって。京都中のスケートボードやってる人が集まってる盛り場みたいなところ(京都市役所)に行って夜な夜なやってたのね。けど最初はみんな様子見で、常連の人達は『誰だあいつ』って感じで。けど毎日一生懸命練習してると、上手い連中とか常連の連中がちょっとずつ認めてくれるようになって。そしたらある日突然常連の1人(KAMI)から『お前、今日からキリンな』って言われて。常連になってくるとだんだんあだ名がついてくるっていうノリがあって、あだ名をつけられると一段認められたって感じだったの。滑り方が背筋が伸びててキリンっぽいみたいな感じで、そのあだ名をつけられたんだけど。DJネームのKIRINはそこからついたわけです」

――なるほど。DJを始めたのもこの頃?
「そう。『Fine』とかを読んでDJってカッコいいなと思って、テクニクスの1200を誕生日に2回に分けて買ってもらったり、中古のミキサーを見つけて買って、一応DJセットは家にあった。レコードも少しずつ書い始めて、知り合いの女の子にテープ渡すってのはやってたんだけど(笑)。けどDJって縦社会というか、弟子入りしなきゃなれないっていうイメージが当時はあって、高校生だし難しいよなって思ってたのね。そんな時に、スケボー仲間から『<スケーター・ナイト>っていうイベントを平日の夜にやるんだけど、キリン、レコード持ってるよね?』って声をかけられて、『俺持ってるよ、DJやるよ』って返事をしたら、フライヤーに『DJ KIRIN』って書いてあった(笑)。それが人前での初DJ。1991年、高3の時」

——初めて買ったレコードって覚えてる?
「うーん……覚えてないなぁ。まとめて買ったイメージなんだけど……。あ、思い出した! ターミネーターX&トゥループスだ! “Wanna Be Dancin'”って曲なんだけど、当時パブリック・エナミーが超流行ってて、スパイク・リーの映画『Do The Right Thing』も流行ってて。学校にラジカセ持ってきて、“Fight The Power”かけるヤツとかいたりして。ターミネーターXのこの曲は12インチでしか売ってなくて、それで12インチを買ったんだ。パブリック・エナミーも好きだったんだけど、当時ハウスも流行ってて、俺的にはハウスの方が好きだった。ブレイズ『25 Years Later』(※4)から黒人運動の流れとかを知って、すごく影響を受けて。そんな中でメトロでドラッグクイーンのイベントがあって、ハウスをかけながらもっと自由だったり平等でいいんだってことをメッセージで伝えてて、俺こういう世界観好きだなって思ったの。それでハウスのレコードも色々買うようになって、『スケーター・ナイト』ではハウスをかけたんだ」

※4:ケヴィン・ヘッジ、ジョシュ・ミラン、クリス・ヘバートによってニュージャージーで結成されたハウス/ソウル・ユニットによるファースト・アルバム。モータウンより90年にリリース。当時モータウンの副社長だったティミー・レジスフォードがプロデュースし、マルコム・X死後25年に焦点を当てたコンセプト・アルバムとなっている。


――そこからどんどんDJ活動が広がっていったの?
「『スケーター・ナイト』が大入りになったから、お店側も定期的にやろうよって言ってくれて、キリンもレギュラーでやりなよって言ってもらったんだけど、結局『スケーター・ナイト』は3回目くらいで人が入らなくなって終わり(笑)。けどその時のDJがすごく楽しくて、もっとやりたいってなって思ったのね。どうやったらもっとできるのかなって考えてた時に、『キリン君、ハウスが好きならこの人がいいよ』って、今、滋賀で『MOVE』っていうクラブをやってるK-SUKEさん(※5)って人がいるんだけど、その人を紹介されて、K-SUKEさんの半分弟子みたいになって。K-SUKEさんが組んでいたDJユニットみたいのがあって、その1人として早い時間にDJしたり、集客を手伝ったりした。それが高3から大学1年にかけて」

※5:86年頃よりDJを始め、地元滋賀や大阪、京都などで幅広く活動を展開。95年に『MOVE』の前身となる『T-UP BAR』を滋賀にオープン。その後97年に『MOVE』をオープンする。現在もクラブ・オーナーとしてだけではなくDJとしても精力的に活動中。当時はORB SOUL SETというDJクルー(カツシン、シン、DJ K-GO、といった今や伝説の方々が所属)でレゲエ、ヒップホップ、ハウスを一晩で楽しめるイベントをやっていた。


――最初に影響を受けたDJはK-SUKEさんだったんだ。
「K-SUKEさんももちろんだけど、超初期に影響を受けたのは天宮志龍(しろう)さん(※6)。もう亡くなられたんだけど、関西では有名なDJで。その人がNYスタイルのDJで、レゲエをかけたり、ダンスホールをかけたり、愛と平和みたいなメッセージを込めてハウスをかけたりして、これはすごくいいなと思った。K-SUKEさんはめちゃくちゃつなぎがうまくて、ディスコからガラージ、NYハウスの世界観を完全に理解してるっていうか、すごい掘ってる人で、K-SUKEの良質ともに凄いってのを目の当たりにして日々勉強してたね。そうやって先輩方のサポート・メンバーにいさせてもらったことで、界隈ではだんだん認識されるようになってきて。同時期に高3の卒業パーティー的なイベントをやったら、かなり集客が良くて成功したから、これを続けようってクラブを借りてDJイベントをするようになったの。それをしばらくやったんだけど、そういう同級生イベントから一歩抜け出して、有名クラブでレギュラーを持つには当然至らないわけで。そんな甘くねぇよって話なんだけど、自分的にも停滞感があったのね。営業するのも大事だと思うけど、自分はイケイケで攻めるタイプでもないからチャンスをもらいづらかったし、K-SUKEさんがレギュラーやってるイベントでサブ的に回せてもらってたけど、それ止まりだった」

※6:70年代後半にDJとしての活動を開始。大阪のクラブ「GENESIS」「QOO」などのサウンド・プロデューサー/DJとして活躍し、日本のハウス・ミュージック界を牽引する。89年には「Ecstasy Boys」を結成し、作詞作曲からヴォーカル、キーボードを担当。音楽とファッションが共存するカルチャーを生み出した。2009年1月死去。

――そこからひとつ抜け出したきっかけはなんだったんでしょう。
「大阪の大学に通ってたから、大阪のクラブにも行くようになって。当時大阪には『QOO』ってクラブと、『AnTeNNa(アンテナ)』ってクラブが盛り上がってて、そこに通ううちにその界隈の人たちと仲良くなって、ちょこっとDJさせてもらったりしてたの。ある時、梅田に『DOWN』っていうクラブがオープンすることになって、オープニング初日だか2日目に遊びに行って。高架下を改造したクラブで、やろうとしてることもカッコよくて、すごくいいクラブだなって思って。そこで、YO-HEYくんっていう今でもそこのプロデューサーをやってる人がいるんだけど、YO-HEYくんに猛プッシュして、ここでやらせてくださいってお願いしたら、本当にラッキーだったんだけど、平日に帯のレギュラーをもらえて。夜の7時か8時くらいから12時半、1時くらいまで5,6時間1人で回すっていう機会をもらえたんだ」

――すごい大きなチャンスだね。
「そう。自分にとってはすごく大きな転機だった。そのイベントは最初『ストリート・ライフ』って名前でやってたんだけど、当時NYに遊びに行った時に『ジャイアント・ステップ』っていうアシッド・ジャズ・ブームを牽引してたクラブがあって、そこでハウスもあるし、レア・グルーヴもジャズもヒップホップもあるしっていう現場を目の当たりにして、この世界観最高だなと思って。自分のオリジナリティを出すってなった時に、K-SUKEさんみたいに本格的にNYハウス・スタイルでやってる人には絶対敵わないなから、『ジャイアント・ステップ』で味わった世界観、フリーソウルだったり、レア・グルーヴをもうちょっとアップデートしたのもだったり、ヒップホップを混ぜたりとか、そういうのをやろうと思ったの。それで『ソウル・ロッカーズ』っていう名前にイベント名を変えて、何でもかけますっていうのをアピールして再度始めた。それが21歳くらいの時(1994年)。そういうごちゃ混ぜスタイルでやってたら、東京のDJが『DOWN』でやるときに、『キリンのスタイルは東京のDJと合いそうだから、サポートDJで入ってよ』って言われて、スカパラのイベントだったり、小林径さん(※7)とか荏開津広さん(※8)だったりが『routine』『Free Soul Underground』とかの大阪版をやるときにサポートDJとして駆り出されるようになって。車持ってて音楽についてもそれなりに喋れて、愛想もいいしってので重宝されたんだけど(笑)。大阪に到着した時から帰るまでずっと付き合うんだけど、女の子の話とか、ここでは話せない甘酸っぱい話もいっぱいありますよ(笑)」

※7:東京クラブ・シーンの黎明期から中心存在として活動しているレジェンドDJ /プロデューサー。渋谷「DJ BAR INKSTIK」のプロデューサーとしてイベント「routine」などを開催。「routine」名義でのアルバム・リリースや、人気ジャズ・コンピ『Routine Jazz』シリーズも精力的にリリースしている。

※8:執筆/DJ/京都精華大学、東京藝術大学非常勤講師。DJとしては80年代より『P.PICASSO』『YELLOW』『MIX』などでプレイ。マルチプルな活動で今もなお多くの人に影響を与えているカルチャー界の重要人物。


――東京のDJと知り合って、自分も東京でもDJやってみたいなと思ったの?
「そこはまたちょっと違って。大学4年生まではそんな感じで、東京のイベントの大阪、京都版でサポートDJをやったり、自分のレギュラーもあったし、月に4,5件はやってたのね。それで就職が決まって、1996年に上京することになって。忙しくて夜の仕事なんてできないだろうし、人間関係も全く変わるから、就職したらDJはできないだろうなと思ってたんだけど、一応DJセットは持ってきてたのね。家でオタクDJ的にやろうと思ってたんだけど、ある時スカパラの冷牟田(竜之)さんから『キリン君、東京出てきたんだ。三宿にWebってクラブがあって、そこが一番イケてて、俺そこでやってるから一緒にやろうよ』って言われて。上京早々だったけどやります、やりますって言って二つ返事で引き受けたの。平日だけど超満員で、自分のDJも盛り上がったし、お店の人達も気に入ってくれて、冷牟田さんからも『毎月よろしくね』って言われて、そこから三宿WebでのDJが始まったわけです」

――やっとWebまで辿り着きました!
「いやー、長かったね(笑)。それが月1イベントで平日だったけど、スカパラ・ファンとか業界人がめっちゃ来てるイベントで。そのイベントで回させてもらったことで、自分のDJアイデンティティが保てたってのはある。“元DJ”と“今DJ”って全然違うと思っていて。昔ちょっとパーティーで回したことがあるとかって、すごいカッコ悪いと思ってたの。本気でやればやるほど簡単なものではないってわかるし。だから仲間内のパーティーでDJやったことありますって人って山ほどいると思うけど、自分はそういうのじゃないっていう思いを強く持ってた」

――なるほど。
「あと、この時期にもうひとつ大きいトピックがあって。当時インターネットが流行り出したんだけど、まだまだヒップホップとか日本語ラップとかについて語ってるページってほとんどなくて。その中の一つに『ヒップホップBBS』っていうのがあって、そこでよく発言してたのね。そしたらある日、旧管理人から『エイジさん、管理人やってください』って言われて。それで『エイジのヒップホップ・トーク』っていう名前に変えてやるようになったの。そこでヒップホップの情報とか東京のイベントとか新譜の情報をみんなでやりとりして、リアルでも会うようになって。そこから『韻化帝国』(※9)が始まったりして。日本語ラップの盛り上がりと同じ速度でインターネットでも盛り上がっていったんだ。週末になるとネットで知り合ったみんなと和民に集まって、そこから(渋谷のクラブ)『Cave』に行ったりしてたね。そこにのちに『Two Three Breaks!』で共演するK404(※10)もいたし、easeback(※11)と知り合ったのもそこだし、easeback経由でG.RINAを紹介されたり。そこからどんどん広がっていったんだ」

※9:97年(?)、2BEAT氏によって開設されたジャパニーズ・ヒップホップ・サイト。BBSには多くのヘッズが集結。98年7月にはYOU THE ROCKや宇多丸をゲストに招いてのクラブ・イベント「韻化帝国ナイト」(@渋谷Family)も行われた。

※10:3人組ヒップホップ・グループ、レッキンクルーの元DJ。レッキンクルー解散後、CRYSTALと共にDJ/プロデューサー・ユニット、Traks Boysを結成。アルバム・リリースのほか、ライブラリー・レーベル「Snaker」の設立や、野外パーティー「DK SOUND」を開催するなど、精力的に活動している。

※11:映像の企画、制作、広告などを幅広く手掛けるクリエイティヴ集団。NHK大河ドラマ「いだてん」、映画「バクマン」「SCOOP」、NETFLIX「全裸監督」などの映像制作から、スチャダラパー、ZEEBRAなどのミュージック・ビデオ制作まで、その仕事は多岐に渡る。

※12:シンガーソング・ビートメイカー/DJ。2003年にデビューし、現在までに6枚のアルバムをリリース。最新作は2021年6月リリースの『Tolerance』。鎮座DOPENESS、ZEN-LA-ROCKとのヒップホップ・ユニット、FNCYとしても活躍中。


……『Two Three Breaks!』の名前が出てきたところで、第1回目は終了。次回は三宿Webを代表するイベント『Two Three Breaks!』についてEIJIさんに語って頂きます!

インタビュアー 川口 真紀

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?