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岡潔の心、妙観察智の姿、命そのもの

岡の講演に字幕をつけるために、テキスト化している。極めて重要なことを言っているのでメモってみる。

妙観察智そのものがあれば、心のある所、直ちに姿が現れる。これは現代物理の先端と同じ。命は心の流露の先端をいう。岡の講演をしめす。

それは古事記は三十万年ぐらいになる。中国の伝説で計算してもらって、三十万年。だけど古事記は仮に近きを書いたもの。無始の始まりからあるはず。って言うのは、この星に人と生まれたのはわずかでしょうが、他の星もある。だからして、いくらでも移住できるんです。だから無始の始まりからの無量の時があり、無量の神々が出ている。 その心、皆合わさってる 。これが高天原ですね。それから神々自身は高天原の神々という訳なんです。 ところで高天ヶ原の神々の特質ですが、まあそういう訳です。

ものには内と外とがある 内は心です。外は形式です。仏教は形式を説いたんです。心を說いてるものは古事記以外にないんです。で、古事記は三十万年しか説いてませんから、後は補うより仕方ない。補うことによって、私、補いますが、ないので仕方ない。 これを補うことによって心の世界というものを描写してるのだと、そう思って下さい。今日中に行けそうもないと思う所まで無理に行こうとしてるから、少し歩調を速めて行く。そうすると 心の世界において、無私の始まりに現れたものは何であるか、どういう神であるか。心そのもの 。その次に現れた神は何であるか。妙観察智そのもの。妙観察智そのものがあれば、心のある所、直ちに姿が現れる。で、今、この二神が生れた時の有様を芥川はこう歌ってる。「現 ともなき中空に、悲しき人の目ぞ見ゆる」。心そのものがあれば悲しき人の目と現れるんだから、妙観察智そのものも生まれると、こういう訳です。それ以前は無始の中空ばかり。妙観察智そのものが生まれたら、心のある所、直ちに中空に姿が現れるこういう訳です。

古事記の何をこれで補っても よろしいが、そんなん余計なことですね。その心そのものが後の天月読命、名前つくの が遅いから、古事記は。それから観察智そのものが高御産日命、さっき言った通り。じゃあ命そのもの。命そのものというのはねえ、心そのものの流露の先端を命そのものと言うのです。だからして、その先が皇孫が伸びて万世一系の皇統となって、日本へ伝わって日本の国というのです。心そのものの流露の先端だから、そうなるのも当然しょう。

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