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岡の講演のエッセンス

いま、岡潔の肉声の講演をYou TubeにUPしている。

岡の肉声を聞き、テキスト化する、それをタイミングよく動画に間配ってゆく。

今まで以上に岡に深く接することができている気がする。

「秋が来れば紅葉」講演後半のその10の中で20世紀の大発見とでも言える

欧米とは違った発見の仕方を語っている。

テキスト化したもの取り上げてみたいと思う。

 ところでポアンカレーですが、ポアンカレーが何故こんなふうになるか。つまり欧米人は、大体、何故こんな風になるかと言いますと、さっきも言いました通り、改米人は普通はまあ理性を一番使いますが、理性といえば妄性と邪性が入りますね。で、邪智型平等性智。ところでポアンカレーの場合は邪性は取れてるんです。妄性だけが残っている。私、これ、キリスト教のお陰というように思う。多分、一度か二度天国へ行って来ている。そうしたって妄性は取れません。しかし、邪性は取れる。邪性取れてる。邪性取れて、妄性だけ残ってますとね、人は生まれて三ヶ年の間、これを童心の季節というんですが、この時は自我は全くない。で、四年目になりますと自我の外郭ができる。これから時間空間の枠の中に入ります。それから第五年になりますと、これは自分の意欲、自分の感情というのが分って来る。それで自他の別がつく。それで人の中核は童心三ヶ年でできちもう。それからあとは皆着物だと思って良い。その着物のうちで既ぎにくいもの二枚ある。一枚が自他の別、二枚目は時空の枠。

 ところでキリスト教の天国へ行って来と、自他の別は取れてる。が、時空の枠は残ってる。時空の枠は残ってるものですから、童心の季節っていったら心そのものですから、そんな風にはやれない。頭頂葉の世界、童心の季節だからですが、そこへは行けない。やはり前頭葉の影ですね、時空の枠がありますから。で、そんな風だから、無心に研究するということができないんです。無心というのは全く取れてしまう、頭頂葉の世界のことだから。そんな風だから、ポアンカレーの研究の仕方は研究に没頭するということは多分ない。そうした時、どうして創造ができるのか、私には分りませんが、しかし、ともかく創造の仕方は頭頂葉に宿った創造自体を見るんでは無く、その影を前頭葉で見てるのだということは分ります。

 胡蘭成さんは、胡蘭成さんて、ご存じない方もあるかも知れない。日本に二十年程おられる中国の方ですが、胡蘭成さんは「日本人なんかは悟り識、開けているから、悟り織ったら頭頂葉ですね、それで創造できる。欧米人は潜在識で創造するんだ。」そう言ってられますが、本当に潜在識なら、よく分りませんが、一度無明を通るでしょう。だから何がどう働いているんか分らんけれども、できるんでしょう。こんなん、理性的努力をしてから一年も一年半も放って置いたら何故できるのか、私、やって来たことないから知りませんが、潜在識だっていうのは分りますし、そうすると影しか分りませんから。この、会取するんですね、頭頂葉へ実ったものを。頭頂葉で見ますと、一種の分り方で分る。で、それでない、ということも分る。

 何故、こんなこと言ってるかと言うと、日本民族の目覚めてる人なら申し分ありませんし、 目覚めてなくても相当眠りの浅くなってる人は、創造という働きはよくできると思う。大いに自信を持って欲しい 。あれ、教育も間違ってれば、やり方も間違ってるから、今さら巧く行えませんけど、目覚めてりゃあもう言うことありません。眠りが相当浅くっても充分できます。で、こんな風だから自信を持って欲しい。

いかがだろうか。なにか引っかかった所はあっただろうか。

頭頂葉へ実ったものを。頭頂葉で見ますと、一種の分り方で分る?

会取する?

童心の季節っていったら心そのもの?

頭頂葉の世界、童心の季節?

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