見出し画像

岡潔の「心そのもの」の意味

核心なっていきますが心そのものの意味を例を上げて語っています。

平安も末の頃、鳥羽上皇の北面の武士に源渡というのがおった。宮中に仕え、卑しい仕事をしていた袈裟という女性を娶った。 袈裟は輝くような美貌で、心ばえは優にやさしかったから、夫婦中は誠に睦まじいかった。ところが同じ北面の武士に遠藤盛遠というのがいた。ふと袈裟を見染めて、命がけで言い寄った。で、袈裟は事態をよく見て、ここは貞操を守る為に、命を捨てるより仕方ないと見極めた。それで主人の留守の時を見計らって「今夜、自分は主人を早く風呂に入れて、これこれの部屋に寝かせて置くから、お前、手さぐりで髪が濡れているのを知ったら、一刀にその首を打ち落してくれ 。そののちでなければお心に従えない」とこう書き送った。それで盛遠は言われた通りにした。そして月明かりに透かしてみると、あろうことか袈裟の首だった。それで袈裟が命を捨てて貞操を守ったという 評判が京の街々に広がった。 そうすると袈裟の葬式の日に、京の街々で貞操をひさいで暮らしを立てていた夥しい女性達が、その葬列に加わって遠い田舎の墓場まで送り届けた。こういうんです。
そこで問題になるのは、一体、袈裟は世の穢れを取ったのだろうか、それとも 生きる望みを失った可愛想な女性達に、生きる希望を与えたのだろうか、どちらだろうという問題が起こります。私は後者だと思います。だから袈裟は天照大御神のご分身なんです。 生きる望みを失った、その望みをお与えになった。もし前者だったら、これば天月読命のご分身なんです。月読命も時々お現れになって、世の穢れをそうしてお取りになってる。それで、天照大御神の喜びのお光というのが分ると思う。生きる望みを失ってしまった可愛想な女性達に、自ら求めてしたんじゃない、生きる為にそうなった、生きる望みをお与えになった。貞操を守ったこんな人がいると、実際、感銘することによって、こういう与え方でなければ再び生きる望みは与えられない。
だから、この二柱の神々はこんな風にして常に日本を守っておられる。で、伊勢の神々は常住にして不易であることがお分りになったと思います。明治天皇は、
  天照す神の御光 ありてこそ
  わが日の本は曇らざりけれ
こう歌ってられる。この天照す神の御光というのは喜びの御光ということです。
私、命そのものと言った、その命そのものとはそんなんです。これが一番、天照大御神のお光の本質を表すものです。生きる望みを失った哀れな女性達に 生きる望みをお与えになった。こういう与え方でお与えになった。これを喜びの光 という、浅く取ってはいけない。

どうでしょう、心に響くいい文章じゃないでしょうか。こういうことが分かると、次のステージが見えてくるのではないですか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?