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それでも忘れられない君へ。⑤

 それから3ヶ月が経つ。
 敬語も「先輩」呼びもしなくなり、「加奈子」「綾ちゃん」と呼び合う二人はすっかり友人、いや、姉妹のような関係となっていた。最初は体育会系丸出しだった加奈子も綾の前では形式的な礼儀を忘れ、それが綾にとってはむしろ居心地が良かった。

「加奈子は描かないの?」

 マルス像を見つめる加奈子の後ろから、綾が声をかけた。
 加奈子が入部した日、「何をしてても良い」と言ったのは綾だが、その言葉に反して加奈子は準備を手伝ってもくれるし、Tシャツとジャージズボンに着替えてモデルもやってくれる。いつも綾の作品の出来を確認し、
「ここの腕のラインが良いよね」
 などと、自分には思いもかけない絶賛してもくれる。こうして石膏像を確認するあたりでも、全くの無関心というわけでもないようにも見える。

「んー、わかんない」
「…そっか」

 加奈子のさっぱりとした回答に綾は拍子抜けしつつも、それ以上は訊ねなかった。わからないのは当然だ。そもそも不条理な停学を経験し、ずるずると腐りかけていた時に半ば無理やりに放り込まれた部活である。綾がデッサンを描き上げる間、出禁となった野球部の練習を見つめていたことも承知している。そこに「やれ」とは言えないし、言いたくもない。

 ただ、描きたいなら描いてくれたら良いのに、とも思う。
 自分自身の身勝手な打算でもある。綾が来年卒業したとして、美術室でアシスタント的なことと、あとは暇つぶしをしているだけの加奈子しかいない部活に、生徒会がまともな予算をつけてくれるとは思えない。そもそも廃部の予定だったが将来は芸術方面に行きたい、1時間でも多く描く時間が欲しいと、高校1年の時に綾が元林先生に懇願して、3年間を条件に残してもらった部活である。
 部員数が5人を上回れば存続する可能性もあるが、ここ2年で、新しく入った部員は加奈子一人っきり。野球部の練習を観ていたところを見ると、ひょっとしたら加奈子も辞めてしまうかもしれない。

 しかしその一方で、綾の絵に対する言葉を聞いていて、この子は自分で絵を描きたい人なんじゃないかとも思っていた。たとえ「上手い」の一言でも、そのテンションは微妙に違うし、嘘が苦手なのだろう、出来の微妙な箇所に関しては口を噤んでしまう。
 マルスを見つめる加奈子は目で描線を追いかけているように見えた。時々目を閉じて、自分の頭の中で絵を描いているようにも見える。そんな彼女に、「実際に描いてみることは、単に見る以上にマルスの造形を知る手がかりになるんだよ」と、教えたくもなってしまう。

 それにしても暑い。ホワイトボード上の時計を見ると、時刻は午後2時30分を少し過ぎようとしていた。

「アイスでも買いに行く?」
「いいね!」

 綾によるおやつの提案に、加奈子は嬉々として振り返り即答した。ちなみに綾が部室に来たのは午前7時半、寝坊した加奈子が部室に来たのは午後2時である。

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